第五〇二話 翼はセルリアンブルー(一九)
ふらりと家を出た孝子は海の見える丘駅前のキャリアショップに向かった。プレゼントと称してスマートフォンの本体のみ購入する。
次は鶴ヶ丘だ。到着すると、例によって例のごとく、赤柴のロンドを抱えた那美が待ち構えていた。
「やっぱり来たー」
「犬、はあはあいってるけど、大丈夫なの?」
時刻は夕暮れ時とはいえ盛夏の候だ。西日は強く、気温も高い。毛深い赤柴にはつらいはずだった。
「部屋で待ってて、って言ったのに聞かない。ケイちゃんのお迎えがしたいのー、って」
「お前。こんなところで徳を積まなくてもいいんだよ。那美ちゃん。はい」
手にしていたギフト用のショッパーを突き出し、ロンドと交換する。
「今から、お芝居をする。黙って聞いてて。余計な口を挟むと失敗する。いい?」
「ケイちゃん。中身、スマホ?」
「そう。うまくいけば那美ちゃんのものになる。いいね?」
「わかった!」
「よし。中に入ろう。犬、もう少しの辛抱だよ」
「新家」のLDKには、折よく養父母がいた。
「おそろいで、ちょうどよかった」
抱えていたロンドを下ろし、孝子はダイニングテーブルに着いた。
「おばさま。実は、お願いがあって参上しました」
「どうしたの。改まって」
「那美ちゃんにスマートフォンを持たせてあげていただけませんか」
「え?」
尋道に授けられたままを孝子は唱えた。
「待って、ケイちゃん。持ち出せないスマホなんて、持ってる意味ないじゃない」
「何が気に入らないの。孝子さんの言った条件は、いちいちもっともでしょう。持たせてもいいかも、って思ったけど、肝心の那美が、そんな調子じゃ、駄目ね」
孝子は瞑目した。クソガキが。黙っていろ、と言ったのに。尋道の言ったとおりになった。この上は潮時を見誤らず撤収するだけだ。こちらも、尋道の言ったとおりに、である。
「那美ちゃん。返して」
孝子は那美の手からショッパーを取った。
「あ! 待って! 待って!」
「待てない。おばさま、お騒がせしてすみませんでした。お願いは、取り下げます」
「うん。せっかく気を利かせてくれたのに、ごめんなさいね。奥村君には、那美が高校を卒業するまで待ってね、って伝えておいて」
「はい」
「えー」
不満げな声は、しかし、美幸の憤怒の形相を前に、先細りとなっていった。この後、母から娘へ、念入りな訓戒が与えられるに違いなかった。観覧は、御免被る。
そそくさと「新家」を逃げ出した孝子は、思い立って郷本家の門前に車を乗り付けた。
「駄目だった」
玄関先に出てきた尋道に、単刀直入でいく。
「スマホですか?」
「うん」
「那美さん?」
「そう。あのクソガキ。高かったのに」
孝子は提げていたショッパーを尋道に示した。
「先に買ってたんですか。気の早い」
「そう。完全な勇み足。郷本君、使わない?」
「実は、今、使っているやつが、六年ぐらいたってて、機種変しようか、と思ってたところなんですよ。おいくらです?」
「あげるよ」
「いただけるのでしたら、遠慮なくいただきますが」
「私が持ってても豚に真珠だしね」
差し出したショッパーを、尋道はさっぱりと受け取る。
「ありがとうございます。そこは猫に小判としておきましょうよ」
「どっちとも哺乳類だよ。変わらない。じゃあ、おやすみ」
車のルームミラーには、ひらひら手を振る尋道の姿があって、それは、見る見る小さくなっていく。まだまだ明るい夏の空の下でも、もはや見えぬだろう、と思いつつ、孝子はひらひら返していた。




