第四話 フェスティバル・プレリュード(四)
さすがに、その場で契約の成立とはならなかった。去る二月に一九歳になったばかりの孝子が車を購入するには、親権者の保証と同意が必要となるためだった。これは麻弥にも覚えのある話だ。麻弥の車も、所有者は父親で使用者は自分、と書類上はなっている。未成年を所有者にしようとする場合、成年に比べてはるかに手間暇がかかる、と伯父に言われて、父親に頼ったのだ。麻弥の場合は所有権の移転だけだったが、今回は売買契約も絡むので、いっそう煩雑となるのは間違いない。
「仕方ない、って。この先、教習所に入るのにも、親の同意書がいるんだし」
自分の金で買いたい、と言い張る孝子は、機嫌が悪い。むすっと半眼で蟹江をにらんでいる。無理押しは明白だ。引きずっても仕方ないだろうに。
「それとも、未成年じゃなくなれば、普通に買えるわけだし、一年待つか?」
「…………」
「納車したら、お花見に行こう、って言ったじゃないか。すごく楽しみにしてたのに、一年、お預けなんて、嫌だよ」
親友の肩を抱いて、やいのやいの麻弥は続けた。そのうち孝子の顔の緊迫が解けてくる。
「あーあ。もう。初めての担当の人が、こんな融通の利かない人なんて」
「ご容赦ください。民法で定められているんです」
蟹江は笑ってテーブルに両手を付いた。
「法学部だろ。納得しろよ」
「まだ入学してないので法学部じゃありません。ただの浪人です」
孝子はショルダーバッグからスマートフォンを取り出した。
「失礼します。……孝子です。たびたび、すみません。今、大丈夫ですか?」
養父か養母への電話だろう。まだ、どちらなのかはわからない。
「実は、車を買おうと思っているんですけど、まだ未成年で、親権者の保証と同意が必要なんです。なので、お願いしてもよろしいですか? ……いえ。お金は、いいんです。自分で出します。保証と同意だけで。 ……え? 今? 勤務時間中じゃないんですか?」
これでわかった。舞浜大学病院に奉職する孝子の養父、神宮寺隆行が相手だ。
「全く」
その後、二、三のやりとりがあって孝子は通話を終えた。
「おじさん、来るの?」
孝子の声を聞いて取った大意を、麻弥は確認してみた。
「うん。ちょうど昼休憩なんだって。蟹江さん。父が参りますので、待たせていただいてもよろしいですか?」
「承知しました」
「さっきの試乗車、見てきても?」
「ご案内しましょう」
「いえ。じっくり検分したいので」
「わかりました。どうぞ」
二人は外に出た。先ほど、試乗した白いSUVに近づく。
「おばさまよりはくみしやすいと思ったのにな」
つぶやきは車の支払いの話らしい。隆行なら、自分に払わせてくれる、と見込んでいたのだ。
「無理だろ……」
「うん。無理っぽい。えらい剣幕で、すぐ行く、って……」
「そりゃ、そうだ」
「まあ、いいか……。麻弥ちゃん。この車、気に入ったよ」
「いいだろう」
「大き過ぎず、小さ過ぎず。乗りやすかったし、荷物もそこそこ入りそう。これ、いい車でしょう」
「うん。ワタゲンでも一番、売れてるモデル」
「そうでしょうとも。免許、早く取らないと」
「三月は、教習所も混んでるぞ」
「そこは、コネを使おう。おばさまにお伺いしてみるよ」
分限者として知られる神宮寺家だ。その当主の美幸なら、なんらかのルートを持っている可能性はあった。
「うん。おばさんなら、なんとかしてくれそう。さあ。どこの桜を見に行くかな。いろいろ考えないと」
「私は免許を取るのに集中する」
そうこうするうちに、時間は経過した。見覚えのある白いセダンが神奈川ワタナベ海の見える丘店に乗り入れてきた。
「孝子……!」
降り立ったスーツの紳士は、猛然と駆け寄ってくるなり、養女をその腕の中に抱え込んだ。
「……もう。お父さんなら、私が出す、って言えば、いいよ、って言ってくれると思ったのに」
つぶやきとともに孝子は隆行に体を預けた。
「言うもんか」
隆行はさらにひしといく。二人にとって、すぐそばの麻弥と蟹江は、まるで眼中になくなっているようで、立ち尽くすしかなかった。年上の美丈夫に、ひそやかな憧憬を抱く身としては、無念やるかたない扱いだ。が、致し方なしか。
「蟹江さん」
小声で麻弥は隣の蟹江に声を掛けた。彼も麻弥同様に待ちぼうけの形となって、動きを止めていたのだ。一歩、二歩と後退すれば彼も追従する。
「さっきも言ってましたけど、孝子、浪人したんですよ。で、一念発起、親御さんのところを出て、予備校が近くにあるここで、勉強に専念してたんです」
「ああ。それで……!」
「はい。私の知る限り、お父さんとも一年ぶりじゃないかな……? すごく、仲のいい親子なので、わかります」
麻弥を知る人たちの口をそろえて言うことに、面倒見のいい、がある。適宜の補足説明で蟹江は合点がいったようだ。感動の再会ならば、待ってしかるべし、となる。よって、麻弥も、憧れの人に、この一年の貢献をたたえられるのは、待ってしかるべし、となる。蜜月と称していい養女と養父の接触は、まだ継続していた。