第四九六話 翼はセルリアンブルー(一三)
午後五時といえば、シアルスは深夜ではないか。瞳からの電話に孝子は出た。
「ご無沙汰してます。今、大丈夫ですか?」
「多忙」
真実、忙しかったら、スマートフォンなどには目もくれない。夕食の支度は済んでいた。麻弥の帰宅までには、まだ間がある。全日本の合宿に参加中の佳世は不在だ。つまり、一人の時間を持て余し、自室で洋楽のミュージック・ビデオを眺めていたがために、着信に気付いた、という次第であった。
「暇なんですね」
「何を勝手に決め付けてるんだよ」
「実は相談したいことがあるんです」
「聞きやしない。で、どうしたの?」
この呼吸だ。
「シアルスに、イライザ・ジョンソンって選手がいるのは、ご存じですか?」
「知らいでか」
二年前のLBAドラフトだ。美鈴がミーティアの指名を受けたドラフトだ。その瞬間、ドラフトの会場となったエンジェルスのホームアリーナ、ザ・スターゲイザーから音が消えた。アメリカでは全くの無名だった美鈴の指名に対する困惑が、その理由になる。あの時、残酷な沈黙を打ち破ったのが、イライザ・ジョンソンであった。彼女が大いに騒いでみせたおかげで、会場に音が戻った。その美挙を忘れるはずがない。
「ああ。つまり、春谷もん、イライザに好意的、と。よかった」
イライザの日本リーグ参戦表明に至る顛末を聞いて、孝子は大いに首肯した。やはり、善良の人なのだ。
「いいね。二人とも爽やかだよ。アスリートは、そうでなくちゃね。で、相談事っていうのは、イライザに関することなんだね?」
「はい」
イライザの日本リーグ参戦を仲介する、と決めた瞳だったが、すぐに気付いた。表立っての行動は難しい、という事実に、だ。
「どうして?」
「一度、声が掛かっている以上は、まずナジコに断りを入れるのが、筋ってものじゃないですか」
「そうだね」
「でも、私、アストロノーツの選手なんで、ナジコにはコンタクトしにくいんですよ」
瞳が所属する高鷲重工アストロノーツの母体企業である高鷲重工業株式会社は、自動車工業分野において、ナジコ株式会社の後塵を拝する立場にあった。前者は後者に、激烈な対抗意識を抱いている、といわれていた。
「その点、春谷もんは、そういったささいなことなんか、気にしないだろうな、と」
「実際、気にしないがね。ところで、断りを入れる、っていうけど、ナジコにまだその気があるようなら、イライザを押し込んじゃってもいいの?」
「もちろんです。ナジコはインサイドがちょっと手薄なんですけど、それ以外の選手層は厚いので。イライザが加われば鬼に金棒です。相当、歯応えのある相手になりますよ」
「じゃあ、ナジコにするか」
孝子の胸中にひらめくものがあった。心当たり、と表現するには頼りない限りだったが、一つ、手を打つ。
「わかった。ちょっと動いてみるよ」
「お願いします」
翌日、朝一で孝子がメッセージを送った先は、那古野女学院の長沢だ。連絡を請う、返事は昼でよい、としておいたにもかかわらず、長沢は即座に電話をかけてきた。
「先生。昼でよかったのに」
「お前が、こんな早くに連絡をよこすなんて、珍しいだろ。気になって」
「先生。松波先生のご子息って、ナジコなんですか?」
受話口に噴出音が届いた。
「いきなり、なんだよ。お前」
「どうなんですか。ナジコなら、続きを話します。違うなら、切ります」
「須之か」
「切ります」
「待て。そうだよ。正治さんはナジコの人」
「偉い人ですか?」
「四〇だし、そこまで偉くはない。ただ、有望株、とは聞いてる」
無印ではなかった。有望株ならば、ある程度の発言力は期待してもよさそうだ。松波正治氏にすがってみよう。孝子は、そう決めた。




