第四九一話 翼はセルリアンブルー(八)
孝子が尋道の要請に応じて、新舞浜THI総合運動公園内の舞浜F.C.グラウンドに出向いたのは、試験が明けて二日後の午後だ。イギリスリーグの強豪、ベアトリスFCへの電撃的な移籍を果たした佐伯達也と伊央健翔が、クラブハウス併設の選手寮に置き去りにしていった荷物を引き取る。また、荷物と同じく、駐車場に放置されたままの車も引き取る。これら作業を行うためだった。
「暑い!」
孝子はクラブハウスの玄関で待っていた尋道に向かって叫んだ。この日は、梅雨明け間近の晴天とあって、盛夏に片足を突っ込んだような陽気であった。そんな中を、最寄りの駅至近となる南口から西口の舞浜F.C.グラウンドまで、園内案内図によれば一五〇〇メートルなりの道のりを踏破してきたのだ。情感が、思わず口を突いて出たのも、致し方ない。
「せめて午前中だったらよかったんですが、先方の都合なので。我慢してください」
午前中は練習があるので対応できかねる、とF.C.に連絡を入れた際に、尋道は言われたそうな。
「腐れF.C.が。つぶれろ」
「門前で、やめてくださいよ」
「今更だけど」
「なんでしょう」
「タクシーにすればよかったね」
佐伯と伊央の車に乗って帰らねばならないので、徒歩にて向かう必要があるが、タクシーにするか、と提案されて、
「あんな街中にあるんだし、電車でいいよ。もったいない。現地集合」
などとほざいて却下したのは、誰あろう孝子自身であった。
「一文惜しみの百知らずだったね。それも、これも、イオケンが悪い」
「伊央さんだけですか?」
「佐伯のたっちゃんも」
ひとしきりぼやいた後、二人はクラブハウスに入った。あいさつは済ませてある。午前の練習が済んで、館内には、ほとんど人もいない。粛々と作業できる、と尋道は言った。
二階建てのクラブハウスの二階部分が選手寮だ。E号室が佐伯の部屋で、隣のF号室は伊央の部屋である。部屋の前に置かれていた段ボール箱やらは、舞浜F.C.厚意の品とか。
「どちらを片付けてくれます? それとも、一緒にやります?」
「荷物、多いのかな?」
「自己申告によれば、二人とも、ほとんどない、そうです」
「だったら、手分けしようか。私は、イオケン」
「では、お願いします」
F号室に入った孝子は、九帖程度と見積もった。備え付けの家具しかなく、目分量はたやすかったので、大きく外してはいないだろう。伊央の自己申告、ほとんどない、は、なるほど、正確だった。
「どう?」
孝子はE号室に移動した。伊央の部屋の整理は、三〇分もあれば済む、とみた。ならば、と尋道の手伝いに、と思い立ったのだ。
「閑散としてますね。そちらは?」
見渡した室内は、伊央の部屋と、どっこいのありさまであった。
「似たようなものだね。イオケンは、多分、車のローンで首が回らなくて、日用品にお金をかけられないんだと思うんだけど、たっちゃんは、どうした」
口利きをして、伊央に神奈川ワタナベ海の見える丘店でローンを組ませた本人が、しゃあしゃあと言う。
「彼は、ゲームのヘビーユーザーなんですよ。それ以外は、なんでもいい、っていう」
「テレビ、ないよ」
「携帯機ですね。たまに、うちに来て、一葉さんと対戦してますよ。ぼこぼこにやられてるみたいですが」
一つの、連想が働いた。孝子の友人でもある尋道の姉、一葉は、小柄で愛らしい女性だ。同じく小柄な佐伯との組み合わせは、どうか。
「意外と、お似合いな二人だと思わない?」
「お似合いか、どうかは、わかりませんが、そうなってくれたら、うちの親たちは喜ぶでしょうね」
どう考えても片付く未来が見えないのが、その理由という。
「一葉さんって、付き合ってる人とか、いるのかな?」
「いないでしょう。工房と家の往復しかしてませんよ」
一葉は「ICHIYO」の号で活動するアクセサリー作家である。
「たっちゃんさあ、もっさんと終わったし、いけるかもよ」
佐伯の移籍話が、破局の発端となった。恋人の願ってもないステップアップに基佳がかみついたのは、佐伯の所属する舞浜F.C.が、リーグ戦の正念場を迎える時期に持ち上がった、このタイミングの悪さに尽きる。ふざけている。恩知らず。話を持ち込んだ奥村も合わせて、基佳はなじる。対して、今の自分があるのは全て奥村のおかげだ。F.C.にこそ恩義などない、と佐伯は突っぱねる。平行線をたどった争議は、佐伯がベアトリスFCと契約したことで終結した。ついでに、二人の仲も、である。
「いけますかね」
「郷本君。もしかすると、もしかするから、佐伯君のマネジメントは念を入れてやらないとね」
「せいぜい頑張りますよ。さて。やっつけますか」
いくら片付けが手早く済みそうといっても、始めなければ終わりの時は訪れない。おしゃべりは、そろそろやめるのが吉だ。孝子はうなずき、E号室を後にした。




