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未知標  作者: 一族
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第四九〇話 翼はセルリアンブルー(七)

 この日の孝子の目覚めも、常の午前五時半だった。枕元に並べた置き時計、スマートフォンのタイマーを順に解除する。土曜、日曜と知力を尽くした司法試験予備試験の論文式試験で疲労困憊となり、起きられないかも、と二台体勢で臨んだが、無駄になったようで何よりだった。普段は、この類いに頼らぬ孝子である。

 半身を起こしたまま、しばらくぼうっとしていると、急にがっくりときた。眠気だ。このままでは二度寝に陥ってしまう。孝子は身支度を整えると自室を出た。前回の短答式試験のときと同様、勉強にまい進すべく孝子は鶴ヶ丘に帰還していた。「新家」で孝子が寝泊まりするのは、四畳半の部屋である。眠気を追い払うためには、体を動かさねばならない。この狭い部屋では不足だった。

 LDKで軽く体操など試みたものの、まぶたの重量感に変化はない。孝子は自室に戻ると財布を手にした。散歩がてらコンビニに行くのだ。勝手口を開けた。こんな時間でも、もう日差しがまぶしい夏の朝の中に、孝子が一歩を踏み出した、次の瞬間であった。

「こらー」

 瞬時に声の方向を測りかねた孝子に、次の声が届いた。

「ケイちゃん。上ー」

 見上げると、那美が二階の窓から顔をのぞかせている。

「何?」

「わんわんに起こされた。ケイちゃんの気配に気付いたみたい。外、外、って。で、こんな朝っぱらに、何をしてるの?」

「散歩に行こうと思って」

「私も行く。待ってて」

 やがて、黒のワンピースをまとった那美が庭に出てきた。赤柴のロンドを抱えている。

「犬は、お外が嫌いじゃなかった?」

「そうなんだけど。一緒に行きたい、って」

「うそばっかり」

「本当だよ。私がお散歩に誘っても、無視するもん。ケイちゃんと一緒なら我慢するんだよ」

「我慢しなくていいよ」

 那美の腕の中でクーンクーンが始まった。

「那美ちゃん。首輪とリードは?」

「持ってきた」

 那美はロンドを地面に下ろすと、首輪を付け、リードを接続した。

「よし。行くぞ」

 二人と一匹は神宮寺家の西門を出た。最終的な目的地は近所のコンビニとして、そこに至る経路は不定だ。眠気覚ましが主眼である。それなりの距離を歩くつもりの孝子だった。

「納得できない」

 歩きだしてすぐに、那美がつぶやいた。

「何が?」

「わんわん。前に私がお散歩に連れていった時なんか、尻尾をくるっとお腹の下で巻いて、帰ろう、帰ろう、ってやってたんだよ」

 そのしぐさは不快や不安のサインと聞く。一方、今のロンドの尻尾は、体の上でゆらゆらと揺れている。

「それなのに、ケイちゃんと一緒だと、なんで、そんなに落ち着いてるの」

「私の人品に感化されてるんだよ」

「私の知っている中で、一番人品の悪い人が何を言ってるのかなー」

「犬。お前の最愛の飼い主が侮辱されたよ」

 すると、くるり振り返ったロンドは、那美の足元に寄り、靴をちょいちょい前脚でつついてみせる。

「小娘、孝子さまを敬えよ、だって」

「わんわん。事実を言っただけだよ」

 途中、「姉妹漫談」が途切れた時だった。

「そういえば、ケイちゃん。奥村さん、いいの?」

「奥村君が、どうしたの」

「ちょっと前に斎藤さんがうちに来てたから、スイーツをたかったんだけど、食べに連れていってくれた先で、聞いたよ。義姉だ、義弟だ、って」

「ああ。あれ」

「奥村さんが好きなのはケイちゃんだと思うんだけど。空港で、面白かったよ。にやにやしながら私たちのところに走ってきた、と思ったら、私を見て凍り付いてたもん。ケイちゃんと見間違えたんだよ。遠目だと私たち、似てるしね」

「いい、いい。あんな、あいさつもろくにできないような人は願い下げ」

 トレーニングに同行している間に、嫌というほど目撃した奥村の生態であった。あの男の、古巣に対する礼節の、なんとなってないことか。

「都度、怒ってるうちに、あの人、とうとう私を怖がるようになったんだよね。那美ちゃん。勝手に騒いでおいて申し訳ないんだけど、あれはやめたほうがいい」

「大丈夫。私と付き合いのない人に、どれだけ奥村さんが冷たくしたって、困らない。かっこいいし、大金持ちだし、文句なし。やったね。本当にもらっちゃうよ」

「あげる、あげる」

 取引は、成立した。

 なお、予定どおり、コンビニでの買い物でしまいとなった散策は、三〇分余に及ぶ長いものとなった。当然、無断の外出は、美幸の知るところとなっている。とくれば、神宮寺家に戻った孝子と那美を待っていたのが、厳重な訓戒であったことは、言うまでもない。南無三宝である。

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