第四八八話 翼はセルリアンブルー(五)
今日こそは、という伊澤浄の期待は、もろくもついえた。二階にある自室の窓から外をうかがっていた浄の目に入ったのは、家の前に乗り付けてきた車の、黒い車体色だった。マリンブルーではない。この意は、黒なら郷本尋道、マリンブルーなら斎藤みさと、である。高鷲重工野球部に練習生として参加している浄の、野球場までの送迎を受け持ってくれているのが両氏であった。前者より後者を、と望むのは、別に尋道氏に含むところがあり、とかいう理由ではない。どうせなら、たおやかな美女との道中を楽しみたいではないか。その一心に過ぎなかった。
「浄ー」
母親の呼ぶ声が届いた。浄は手荷物をまとめて階下に降りた。玄関では、すっかり顔なじみとなった尋道と母親が談笑していた。
「やあ。こんにちは。では、おばさん。ご都合のいい日にご案内しますので、その節はよろしくお願いします」
「はい。こちらこそ」
「なんの話?」
一カ月後の七月末に、カラーズ全体が身動きを取れなくなる日が二日ほどあるので、その間、浄の送迎を頼みたい旨の依頼であった。山梨県は国府市を舞台に繰り広げられる、日本女子バスケットボールリーグのサマーシリーズに、神奈川舞姫が参加する。公式戦ではないものの、舞姫の実質的なお披露目となる当該のイベントに、カラーズは立ち会わなければならない、と事情は説明された。
「実は、僕は留守番で、こっちに残っているんですが、舞姫館がすっからかんになってしまうので、出歩けないんですよ」
「へえ。郷本さん、残念でしたね」
「何がです?」
「みなさんと一緒に国府に行けなくて」
浄のせりふに対して、尋道は片頬をゆがめてみせる。
「とんでもない。むしろ、積極的に留守番を買って出ましたね。七月末の国府なんて、冗談じゃありませんよ」
いよいよ暑気も全盛に突入することを、尋道は言っているようだった。
「国府、超暑いしね。斎藤さんたちも大変だわ。そうだ。郷本君。最近、斎藤さんは? ここのところ、顔を見てないけど」
目下の関心事を、期せずして母親がまな板に載せてくれた形になった。式台に座って靴を履きつつ、浄は聞き耳を立てる。
「僕の繁忙期が終わったので、ご自分の業務に専念してもらってます。サッカーの奥村紳一郎君は、ご存じですか?」
「もちろん」
「彼が帰国している間のトレーニングをサポートするのも、僕の役目だったんですが、どうしても一人では手が足りなくて、斎藤に出動を依頼していたんですよ。それも、奥村君がイギリスに戻っていったので終わった、というわけです」
「ああ。そういう事情だったのね」
「はい。斎藤には、気に掛けていただいていた、と申し伝えておきます」
「うん。お願いします」
なんたる。ならば、と浄は立ち上がった。
「母さん。舞姫のデビュー戦だかは、うちはどうするの?」
「うち?」
「姉ちゃんも出るでしょ? 応援、行く?」
「ああ。そっか」
「行くんだったら、俺も野球部のほうは休んで一緒に行こうかな」
「お待ちを」
制止が入った。
「まだ正式な発表はないですが、おそらく、伊澤さんは参加しませんよ。八月にアジア選手権があって、そこへ向けた合宿に招集されるはずです」
「あ。そうなんすか。じゃあ、行っても仕方ないか」
姉の応援にかこつけ、カラーズ、舞姫の美形たちと交流を持てるか、と思ったのだが、不発に終わったようだ。肝心のまどかがいないのでは、どうしようもない、と浄は引きずらなかった。この先、好機はいくらでもあるはずである。焦る必要はない。
雑談は、ここまでとなった。母親の見送りを受けて、尋道の運転する車は走りだす。重工野球部が活動する新舞浜THI総合運動公園第二野球場までは三〇分弱の道のりとなる。すっかり切り替えた浄は、この間を有意義なものとするべく、われから口火を切って尋道とのたわいない交流を開始していた。この前向きさ加減は、彼の好ましい特性、と称してよいのだろう。




