第四八六話 翼はセルリアンブルー(三)
芳しくなかった、というのが、実感になる。五月に受験した司法試験予備試験の短答式試験に関する成算だ。また来年、か。そう漠と考えていた矢先だった。孝子の元に合格通知書が届いた。受かった以上は、次を目指さざるを得ない。がり勉を再開する。場所は、いつもの舞浜大学千鶴キャンパスは教育人間学部棟の五階、各務智恵子の教授室である。
「こりゃ。お前は、また、サボって」
朝一の一服がてら、椅子の上で反り返っていた時だ。部屋の主、各務の声が室内に響いた。
「各務先生。ノックしてください、って言ったでしょう」
「ここは私の部屋だ、と言っただろう」
見合った二人は、同時に噴き出す。
「連休明けぶりですね。新米ヘッドコーチは、いかがですか?」
「もうそんなにたったか。佳世に聞いてると思うが、オーストラリア遠征は中核がいないなりに、なかなかだったぞ」
「あの子、愚痴ばっかりでしたよ。知ってる人が各務先生しかいなくて、話し相手がいない、って」
「なんで、私がいるのに、話し相手がいない、となる」
「おっかないので、嫌、だそうです」
「ばかが。そっちは、どうだ?」
「短答式、受かりました」
「何! でかした!」
のしのしとやってきた各務は、孝子の頭をなでる。
「次は、いつだ?」
「七月です。引き続き、お世話になりますね」
「いくらでも使え」
その後も各務は、そうか、そうか、と一人悦に入って、にやにやしている。孝子の前進がうれしくて仕方ないらしい。気のいいおばさんだ、と釣られて孝子もにやついていたところに、来客だった。
「あ。お姉さん」
須之内景が長身を折りかがめるようにして教授室に入ってきた。
「須之ちゃん。お久しぶり。佳世君め。そういえば須之ちゃんがいるじゃないか」
「孝子。景は呼んどらん。教職課程ってのは忙しいんだ」
全日本には話し相手が、と佳世がのたまった愚痴についての疑義であったが、即座に各務の否定だった。
「あ。そうなんですか。いや、ね。佳世君が、全日本で話し相手がいない、って嘆いてたから、須之ちゃんがいるじゃない、って思ったんだけど。参加してなかったんだ。ごめんね。最近、試験勉強にうつつを抜かしてて、バスケのことに疎くて」
「そうだったですか。はい。大丈夫です」
元々、意気軒昂な娘ではないが、今日の景は、少しおかしい。はた目にもわかる、しけた面で、たたずんでいる。
「どうした。お前」
「いえ……」
いえ、ではない。孝子は手荷物をまとめて立ち上がった。
「各務先生。私、図書室に行ってきます」
「そうか。すまんな」
各務の声と景の黙礼に送られて、孝子は教授室を出た。言葉どおりに図書室に向かい、がり勉の開始だ。昼食の時間まで、ひたすら励む。
三時間がたった。もう話も終わっただろう、弁当はいつもどおりに教授室で、と考えて戻ってみると、案の定、教授室の室名札は「帰宅」表示になっていた。
入室して、ぎょっとした。各務は在室していて、応接セットのソファで反り返っていたのだ。
「こら。サボるな」
「サボりたくもなる」
何事か、起きたようである。室名札は、あえて、の可能性があった。
「各務先生。どうされたんですか?」
「景と、美馬だな。いや。美馬のほうは、いいんだ。景だ。あいつは、大成せんな」
教育者らしからぬせりふが出てきた。
「座れ」
言われるまま、孝子は応接セットに着き、各務に正対した。
「あいつ、土日で那古野に行ってたんだと。美馬に頼まれて。留学生対策でな。正直、いくら留学生対策だろうと、景に高校生の相手をさせるのは役不足なんだがな」
須之内景は、大学を卒業した後は、那古野女学院に教員として赴く予定になっていた。予行演習の意味合いも含めた招集だったのであろう。
「そっちは、うまくいったんだ。その後さ。松波さんのところに厄介になったそうだが、そこに、ご子息がいらっしゃってな。どうも、美馬と怪しいらしい」
長沢と松波の子息とのことが事実として、景の表情との関連は、何か。孝子には思い浮かばなかった。
顔に出ていたようだ。各務は孝子に語って聞かせた。松波は那古野における長沢の師父だ。その人の子息との交際となれば、長沢と松波、いやさ、松波家との縁は、公私にわたって、ぐっと増す。自然、景が長沢と接する時間は減る。
「向こうでも先生と生徒を続けるつもりだったのさ」
ようやく得心がいった。景の、あのしけた面は、自分の行く末を悲観してのものだったわけだ。なんと脆弱な神経か。あきれた。これ以上は、聞くに及ばず、だった。甘ったれの事情など、孝子は知らぬ。知らぬ。




