第四八五話 翼はセルリアンブルー(二)
今日もシアルスは、よく晴れている。秋口に始まって、春先まで続く長い雨期が終わっても、肌寒い日々の続いていたこの街に、ようやく過ごしやすいシーズンがやってきた、とは先住者からの受け売りになる。瞳がシアルスでの生活を始めて、まだ一カ月しかたっていないのだ。
寝起きの瞳は、ベッドを抜け出し、窓際に立った。湖に張り出した一五階建ての最上階、その一室にも届く照り返しのまぶしさといったら、どうだ。湖面には、おそらく遊覧と思われるヨットが、早朝にもかかわらず、あまた漂っている。この眺めが、やがて、灰色に一変するとは、なかなか想像できないが、先住者が、そう、言うのだ。そう、なのだろう。
だんだんと起き抜けのぼうっとした頭もさえてきた。家具の少なさで、ことさらにだだっ広く感じられる部屋の中を行き来して、手早く身支度を済ませると、瞳は自室を出た。
瞳が居候しているのはメゾネットだ。階下へのらせん階段は、吹き抜けが印象的な一大リビングダイニングに直結している。これが、また、ものすさまじかった。立ち入るたびに、瞳は圧倒されてしまう。吹き抜けの最上部に届く一面のガラス窓が、時分ごと、色とりどりに染まるさまは、まさに絶勝としか表現のしようがなかった。例えば、今の季節、今の時間なら、二種類の青のコントラスト――空の青と湖の青――に、という具合である。
毎朝の恒例で息をのんだ後、瞳はらせん階段を下り切り、リビングダイニングの中央へ歩を進めた。リビングダイニングにはメゾネットの長である川相倫世と、その夫の川相一輝がいた。フードカバーが三つ、据えられたダイニングテーブルを囲んで会話に興じている。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよう、アイ!」
呼び掛けられるたび、苦笑いが浮かんでしまう。瞳の名を英訳した「アイ」なるニックネームは、倫世の命名だった。絶対に、似合っていない。自信を持って断言できるものの、さりとて訂正を求めるのも、はばかられた。倫世は大恩ある孝子の幼なじみだ。また、その夫の川相ともども、瞳が通っていた福岡海道高等学校の先輩であった。付け加えれば、川相は高鷲重工の先輩に当たったりも、する。抗議など、できようはずもなく、ただ甘受するのみが、穏当といえた。
「失礼します」
瞳はダイニングテーブルに着いた。
「アイ。今日の試合、見に行く」
川相が言った。
「はい。今日は、試合、なかったんでしたっけ?」
一シーズンで一五〇試合超をこなすアメリカプロ野球は、誇張ではなく、連日、試合をやっている。休日とは極めて珍しい。
「うん。帰りは外で飯を食おう。予約してある。延長にはするなよ」
「努力します」
「そうそう。アイ。あのやろうに、アイの試合を見に来るように言ったら、さ。司法試験予備試験、だっけ。あれの一次に受かってて、二次の勉強を始めたとかで、来られないんだと」
倫世の言う、あのやろう、が孝子であることは、言うまでもない。
「確か、すごく難しい試験ですよね。それ。外見どおりに頭もいいとか、すごいですよね、あの人も」
「性格は悪いけど、顔と頭は抜群にいいんだよね。あいつは。試験、三次まであるって聞いたし、多分、全部、受かるよ。そうなると、次は本試験があって、そこもパスしたら、研修だかがあるんだったかな? しばらく、こっちは無理そうだね」
「そうですか。残念」
自分の奮戦ぶりを披露したい気持ちもあったが、事情が事情だった。仕方ない。
「うん。よし。食べようか」
倫世の号令に瞳と川相は従う。フードカバーをのけると、雑穀米、みそ汁、何かは知れぬが開き、納豆、焼きのり、生卵、ホウレンソウのおひたし、という見事なまでの和の朝食が現れた。達者の倫世が手ずからの数々になる。
「しかし、いくらアスリートとはいえ、お前たちは、本当に燃費が悪いよな」
倫世の指摘は、自分の分の、おおよそ倍量が瞳で、そのまた倍量が川相、となる食事の盛りについてだった。
「それは、そうだ。戦艦と伝馬船の燃費が同じわけない」
「おい。ゴリラ。誰が伝馬船だ。燃費以前に、人力じゃねえか」
「そんなもんだろう」
始まった。この二人はささいなことで、よく口論もといじゃれ合いを始める。夫婦げんかは犬も食わない。黙殺して瞳は汁わんに口を付けた。今日の塩加減も絶品だった。




