第四七話 五月晴(一二)
夏季休暇に入って、舞浜大学の構内もめっきりと人の往来が減っている。メインの顧客が消える以上、関わっていた者も暇になるのは道理だ。涼子がショップ長を務める北ショップも、開店休業状態である。わずかに人の集中がある時間帯だけ同僚の応援を頼み、それ以外は涼子が一人でぽつねんとしている。
「やあ、暇そう」
食後の、一番、危険な時間帯だった。間の悪いことに大あくびと斯波の入店がかぶった。涼子は赤面した。
「お互いさまでしょう。勤務時間中に、うろうろして」
「いや。お昼を買いに」
「それは、いらっしゃいませ」
斯波は商品の棚に向かい、菓子パンと缶コーヒーを取ってきた。
「……斯波さんが、缶コーヒー以外を買うのって、初めて見たかも」
レジを打つ手を止めて涼子はつぶやいた。
「そうでしょう。僕、基本、昼は食べないんで」
「ええ……? よくないですよ」
「習慣だしね」
「その習慣をお変えになったのは、なぜ?」
「気付いたんだ。これぐらいの時間って、涼ちゃん、暇でしょう? わが友、孝ちゃんのおかげで、だいぶ、ガードも緩くなってきたことだし、許されるかな、と思って」
確かに、神宮寺孝子を仲介として、涼子と斯波の関係は、急速に近しいものとなった。音楽家、剣崎龍雅の仕事場を訪問した後の食事を皮切りに、買い物に一度、行った。出会いの日から三年たって、初めてSNSのアドレスを交換した。大変な進展といえた。
元々、涼子は斯波を疎んじていたわけではない。顔立ちは、美男子とまではいえないが、いい男の片隅には置いてもいいぐらいの水準にある。パーツの一つ一つがあっさりとして、いわゆる「しょうゆ顔」のタイプだろう。痩せ過ぎまでは至らない細身で、身長は一六七センチの涼子より一〇センチぐらい高い。スーツのセレクト、着こなしも申し分なかった。つまり、斯波遼太郎氏は、言い寄られて嫌な気持ちになる相手ではなかったのだ。
そんな男と、これまで付かず離れずだったのは、ひとえに斯波の軽さに原因があった。軽さ、といっても人柄に対する評価ではない。度合いへの、とでも表現すればいいか。つい最近まで、二人の接点は、クラブハウス棟の前で落ち合い、大学管理棟を経由して舞浜大学千鶴キャンパス前駅まで、という帰りしなのひとときのみだ。涼子の側から掛けたモーションではないのだ。一押しをする責務は、先方にある、と考えるのが普通だろう。
「……買い物ぐらい、いつ来たって、拒みませんよ」
「立ち食いは?」
「一個の社会人として、それはやめてくださいな。軽食コーナーで食べていらしたら。お食事の後の、おしゃべりなら、付き合ってもいいです」
「そうする」
言い残して、菓子パンと缶コーヒーを片手に北ショップを出ていった斯波は、三分ほどで戻ってきた。
「もう戻ってきたんですか……?」
「あんな小さなパンだもの」
「ちゃんと食べない人は嫌ですよ。そうだ。出先で食べた海鮮丼がおいしかったんだ。おごらせてあげましょうか」
「どこ?」
「三海の漁港ね。ちょっと待って。写真、ある」
「へえ。涼ちゃん、そういうの撮る人なんだ」
「一人なら、撮りません。デートしてたんです」
「え。デート」
涼子は机の引き出しに入れているバッグインバッグから、スマートフォンを取り出した。「現場写真」を表示させて、目を見開いている斯波に突き付ける。
「なんだ。孝ちゃんじゃない」
「孝ちゃんさんですよ。誰も男と行ったとは言ってません」
スマートフォンの画面には、涼子が自分で撮影した孝子とのスナップ写真が表示されている。海鮮丼を手に二人が並んで笑顔だ。約束していたドライブに、先週末、行ってきたのである。
「他の写真も見ていい?」
「どうぞ。その時の写真しかないんで」
「……涼ちゃんは、車は持ってるんだっけ?」
孝子の車をバックに撮った写真があったはずだ。それを斯波は見ているのだろう。
「持ってません」
「じゃあ、後ろの車は孝ちゃんの?」
「そう。ドライブに誘ってもらったの。いいでしょう」
「いいね。僕が誘っても一緒に来てくれる?」
「いいですよ。斯波さん、どんな車にお乗りなんですか?」
「持ってないよ。今までは持つ意味がなかったけど、こうなれば、考えないと」
そのためだけに買うのは、と口に出しかけて、涼子は思いとどまった。押しの足りなかった相手への不審は霧散しつつあった。自分のために、そこまでやろうという男の意気は、悪い気がするものではない。
「……じゃあ、一緒に選んであげましょうか?」
ガードも緩くなってきた、と斯波には評されたが、このまま自分はあっけなくノックアウトされてしまうのだろうか? 予感は、意外に悪くない心持ちだった。




