第四七六話 タイニーステップ(一七)
奥村紳一郎が搭乗したベアトリス発の便は、早朝、東京空港に到着した。ファーストクラスをいの一番で飛び出した後は、脇目も振らずに到着ロビーを目指す。オフである。母親と水入らずの時間を過ごせる。加えて忘れ得ぬ人――神宮寺孝子に会える。
一度、断られた相手ではあった。彼女の事情は理解している。仕方ない、と諦めていた。しかし、胸底に秘めた思いは、今も確とした形を取っている。せめてあの佳人と交友を結べたら、と願う気持ちは未練の範疇に入るのだろうか。淡い期待を抱いて、孝子が率いるカラーズにトレーニング施設の斡旋を依頼してみると、日ごろ、主にやりとりを交わす郷本尋道から望外の返答があった。
「受け入れ態勢が整った。神宮寺孝子と正村麻弥、そして、自分がトレーニングをサポートする」
大当たり、といえた。高校を卒業して、はや四年。孝子はますます美しくなっているだろう。早く会いたかった。
到着ロビーに出た。尋道が送迎に来てくれているはずだが、もしかして孝子も一緒だったりはしないか。午前七時は、少し早過ぎるか。人もまばらな空間を見渡すと、らしき二人組を発見した。向こうも奥村に気付いたようで、手を振ってきた。女性一人と男性一人の組み合わせである。遠目で、まだ判然としないものの、細身の女性は、もしや。青いワンピースに包まれた、姿勢のいい立ち姿は孝子のように思えた。スーツの男性は、おそらく、郷本尋道だろう。
足取り軽く駆け寄っていって、一転、奥村は立ちすくんだ。孝子ではなかった。背格好は酷似している。が、孝子ではなかった。血縁者、なのか。
「おはようございます。遠路はるばる、お疲れさまでした」
「奥村さん。おはよう!」
見ず知らずの少女の、大きな声だった。美しかった。孝子に匹敵、いや、凌駕する。絶世の佳人といっていい。
「すみません。紹介が遅れました。こちらは神宮寺那美さん。神宮寺さんの妹さんです」
奥村の沈黙を不審と尋道は判断したようだ。
「そうでしたか。なんとなく似てる気がして、そうじゃないか、とは思ってたんですが。おはようございます。奥村紳一郎です」
「はーい」
「高校の大先輩の凱旋をお出迎えしたい、とおっしゃって」
尋道の説明の後に那美の笑いがはじけた。
「まずは車へ」
到着ロビーに人けが全くなかったわけではない。これ以前から、奥村の存在がわずかながらの人目を引きつつある気配はあったのだ。尋道の適宜の指示だった。
ターミナルビルを出たところで、先を行く尋道に奇声を発しながら那美が体当たりを見舞った。何事か、と奥村は立ち止まった。
「なんですか」
「さっきのは嫌みかー」
尋道が振り返った。
「失礼しました。元々、お迎えは一人で来るつもりだったんですよ。僕、朝が苦手で、早くから動かないといけないときはホテルに泊まって備えることにしているんです」
そう言いながら彼が示したのは、国際線ターミナルビルに隣接して立つ低層の建物だ。薄暗がりの中に、ぼんやりと輪郭を結ぶそれは、定宿の東京エアポートホテルだそうである。
「そしたら、この人が、自分も泊まりたい、ぜひとも連れていけ、と、猛烈に」
「郷本さん、ばらさないでよー」
悪びれたふうもなく那美は言う。なるほど、高校の大先輩うんぬんは尋道の嫌み、すなわち奥村に対する興味はなかったわけか。ここまであっけらかんとされれば腹も立たない。そうこうするうちにも歩は進み、駐車場の隅まで来た。とめられていた黒い車に取り付いた那美が、後部座席のドアを開け、中に進入していく。
「奥村さん。乗ってー」
声に従い、奥村は車内に体を滑り込ませた。
「では、ご自宅までお送りしますね」
運転席の尋道が宣言した。ゆっくりと車が動きだした。
車内の会話は、九割方が那美発となった。先ほどの尋道との掛け合いについても、詳細を自白している。事の起こりは孝子だ。まさにこの日、司法試験予備試験の短答式試験に臨んでいた彼女は、試験に向けた準備を万端整えるため、数日前より鶴ヶ丘の自宅に滞在していた。この時、孝子が話の種にと奥村の帰国を持ち出したことが、那美の「猛烈」の始まる契機となった。
奥村の送迎を担当する尋道は、睡眠不足に弱い。早朝の到着便への対応と、自ら定めた起床と就寝の厳守を両立させようと、前日の現地入りを選ぶほどには、睡眠不足に弱い。現地入りした尋道はホテルに宿泊する、と那美は知った。空港至近のホテルとは、なんとも興味深い。奥村の帰国は、ちょうど休日で、絶好機である。那美は自分も連れていってくれるよう、直接、尋道に申し入れたのだ。
もちろん、嫌がられた。未成年の異性の監督などという重責を担いたくない、と突き放された。それでも那美は引かなかった。神宮寺家では当主の母親が好まず、旅行の類いが行われない。学校関連の行事以外で、初めて那美が外泊らしい外泊をしたのは、姉の静の応援でアメリカに行った時だ。非日常の少ない生活は、不平とまではいかないが、不満ではある。めったにない機会だった。迷惑は承知の上だ。何とぞ、何とぞ、と尋道を拝みに拝んで、ついに那美は同行を勝ち取った――。
いつしか、奥村の意識は、隣に座る少女の話の内容から、千変万化する表情へと移ろっていた。止めどなく動く唇は、今、ホテルのレストラン探訪記を語っている。せっかくビュッフェの代金を支払ったのに、さっぱり食べない尋道を笑い、彼の分まで食べて敵を討った、と胸を張る。優美な姉は、もちろんいいが、この無垢な妹も十二分に魅力的だ。少女の放つきらめきに、奥村は目を細めたのであった。




