第四七四話 タイニーステップ(一五)
大型連休が明けた一日だ。休みの間は隣県の温泉地で、恋人との甘い明け暮れを送っていた麻弥にとって、久しぶりの出勤である。朝一の舞姫館に入る直前になって、われ知らず足が止まった。入りにくい。といっても、気恥ずかしい、とか、そういう理由ではなかった。炸裂した、と本人の口から聞いたのだ。孝子だった。実弟、浄への不信を隠さず、その彼のサポートに敬愛する先輩が当たることへ、ぐちぐち言うまどかを喝破し、そんなに気に入らないなら返してやる、と祥子を舞姫に突き返したとか。むちゃくちゃではないか。さぞオフィスの雰囲気は悪かろう、と思う。その中に入っていかなければならない憂鬱が、おのずと麻弥の歩みを止めたのだった。
「おはようございます」
カラーズ島には祥子の姿がない。舞姫島に戻っている。出かかったため息を、麻弥はなんとかこらえた。土産を配り歩く過程で祥子と短い会話を交わしたが、先方は何も言ってこなかった。孝子にどやされたとかいうまどかも同じだ。もっとも、言ってこられても、麻弥だって対応に困るのではあるが。
カラーズ島に戻り、最後の温泉まんじゅうを尋道に手渡した時だった。
「ありがとうございます。そうだ。正村さん。社用車、まだでしたよね。見ましょうよ」
祥子絡みで導入した社用車の話題などと、このタイミングで、と思ったが、尋道は取り出した車の鍵を握って、さっさと行ってしまう。仕方なく麻弥は彼の背中を追った。
「その様子だと、神宮寺さんから聞かれましたね?」
外に出て、社用車のそばに寄ると、先行して待ち構えていた尋道が言ってきた。ここで麻弥は、尋道が密談のため、あえて自分を誘い出したのだ、と気付いた。
「う、うん。高遠、もう戻したんだな」
「所属はカラーズのままですけどね。さすがに二週間で出戻りはさせられません」
「あ。そうなんだ」
「高遠さんには、ほとぼりがさめたころに、戻るか、残るか、選んでもらいます。十中八九、舞姫に戻られると思いますが」
「だよな」
「真面目に、考えないといけないかもしれません」
何を、と尋道はなかなか言わない。麻弥は待った。
「舞姫とは距離を置くべきでしょうか」
「え……!?」
「神宮寺さんが振り回しっぱなしですよ。選手を何人も押し付けてくる。人材を引き抜いたかと思ったら、一カ月も経たないうちに突き返してくる。金は出してくれるが、それ以上に口を出すという、ちょっと、いや、かなり厄介なオーナーになってます」
そのとおりなので、返す言葉もない。
「ですが、カラーズがカラーズたる最大の事由は、神宮寺さんの独断専行にあります。それを阻害するようなまねは、できれば控えたい」
「具体的には、どうするんだ?」
「出られるものなら舞姫館を出ていきます」
随分と飛躍した。
「まずは物理的な距離を置きます。今回の事態は、直接の接触がなければ起こらなかったでしょうしね。その代わり、伊澤浄君の野球人生も中学までになっていた可能性は高いですが」
物理の次は心理だ。とはいえ、淡泊な孝子のこと。周囲が働き掛けるまでもなく、いずれ舞姫への関心を失うであろう。尋道の読みだった。
「だな。でも、出るって言ったけど、次の当ては、あるのか?」
「ありません」
麻弥、ずっこけた。
「出られるものなら、と言いましたよ。でも、来年度までには結論を出したいですね」
「来年度?」
「神宮寺さんが大学を卒業されるでしょう。あの人がフルタイムで舞姫館に顔を出すようになれば、さらなるあつれきが生じるのは避けられません」
これも、よく読んでいる。神宮寺孝子は、その人となりに慣れた自分たちでさえ手こずる猛者だ。何か、が起きぬはずはない。
「SO101に戻る羽目になったりしてな」
かつてオフィスが入居していた部屋の名を麻弥は口にした。
「カラーズの規模としては、あれで十分ですよ」
「うん」
「これぐらい、ですか。ただ、くれぐれも、この話は神宮寺さんには内密でお願いしますよ。知られたら、即座に行動を起こしかねません。何かを切り捨てるときにも、あの人の独断専行は発揮されると思いますので。僕たちも、今日を最後に、この件は忘れましょう。斎藤さんにお願いします。あの人に任せておけば、ごく自然に、うまい形に持っていってくれますよ」
言いたいことは言い終えたのだろう。尋道が車の鍵を麻弥に手渡してきた。
「車を見に来たわけですし、立ちん坊も妙ですね。一回りしてきては、どうです?」
「そうするか」
応じて、麻弥は車に乗り込んだ。エンジンをかけて、気付いた。燃料が、だいぶ減っている。給油がてらの試乗、としておこう。車窓を開けて、その旨を尋道に告げた後、麻弥はゆっくりと車を発進させたのだった。




