第四七三話 タイニーステップ(一四)
社用車の移送を買って出た孝子が、気持ち遠回りをした後に舞姫館へとたどり着いたのは、午後三時になんなんとするころであった。本当ならば高速に乗って、遠出したかったのだ。しかし、あいにく孝子も、同乗した祥子も、都合が悪かった。孝子は午後五時からアルバイトがあり、祥子は、それより一時間早い午後四時から舞姫の練習が始まるのである。
舞姫館の駐車場には、みさとの車と尋道に任せた愛車とが、既にとまっていた。その傍らではみさとと尋道が立ち話に興じている。
「戻ったぞ」
降り立っての第一声である。
「思ったよりも早かったね」
「バイトがある。さっちゃんは練習だし。なかったら、高速に乗ってた」
「あんたの試験が終わったら、どこかに繰り出さない? 高遠さんの歓迎会を兼ねて、さ」
みさとが笑顔で提案した時だ。まどかが舞姫館を走り出てきた。
「うわあ。本当に、車、買ったんですね」
「お。どうした。伊澤さん」
「いえ。うちのあれのために、と思ったら、申し訳なさ過ぎて。きっと、無駄になります」
「お姉ちゃん、冷たいな」
「あいつ、ちゃらんぽらんですよ。絶対に、途中で飽きて投げ出します」
「天才なんて、それぐらいでないと」
まどかの嘆き節を断ち切ったのは尋道だ。
「あいつが天才とか。郷本さん。さすがにお眼鏡違いですよ」
「今の時点で決め付けるのは早計と思いますがね。いずれにせよ、カラーズのやることです。あなたに負担を掛けているわけでもなし。放っておいてください」
「確かに、私はそうですけど、先輩が」
「さっちゃんは、自分から手を上げた、って聞いてるんだけど。何か。てめえの中では、カラーズが無理強いした、って話になってるのか」
孝子の重低音に、その場の全員の呼吸は停止したようだった。
「い、いえ。それは、わかってます。ただ、あんなやつのために先輩が、って思うと」
以前も、そうだった。まどかは浄に対して異常に辛口である。つれない姉もあったものだ、と思っていたが、今のやりとりで、ようやく理解できた気がした。短い間に二度も出てきた、先輩、がキーワードだった。愚弟のため、敬愛する先輩の貴重な練習時間がふいになる。まどかが気に入らない大方は、これなのだ。ならば、簡単だった。
「じゃあ、返す」
視界の端で尋道が天を仰いでいようとも、構うものではない。
「さっちゃん、舞姫に返すよ。野球の子の面倒は私たちだけで見る。これで文句はないでしょう。以後、二度とカラーズのやることに口を挟むな!」
咆哮を受け、尋道がみさとに祥子とまどかを連れていくよう促している。心得たみさとは、蒼白となった二人を抱えて舞姫館に入っていった。
「返す、とはいっても、短い間に転職、転職では高遠さんも、いい面の皮なので、その件については保留でいいですか?」
「うん」
「取りあえず、伊澤浄君のサポートからは外します。現役の選手に練習時間を割いてもらう、というのが失敗でした。僕の落ち度です」
孝子は大きく息を吐いた。
「カラーズだけでやる、って言っちゃったけど、できそう?」
「シフトを組みますよ。手伝っていただけるんでしたよね?」
「うん」
「あちらにも、ね」
尋道はみさとたちが去った舞姫館の方向を見る。
「クライアントの緊急事態です。斎藤英明税理士事務所の応援があるんじゃないか、と期待していたり、いなかったり」
五分後に尋道の希望的観測は報われた。
「いいね! カラーズだね! この緊迫した感じ。最高! 久しぶりに、生きてる、って熱くなるよ」
助力を要請されたみさとは、一瞬たりとも逡巡しない。
「税理士稼業って、そんなに無味乾燥なの?」
「見習いだしな。で、私は何をしたらいい?」
「野球部のほうをメインに、お願いしたいんですが。神宮寺さんと正村さんには、差し支えなければ、奥村君を」
「別に、麻弥ちゃんはいらないけど」
「そう言わないでください。一人だけ役を振らないわけにもいかないでしょう」
言外に、麻弥は使いづらい、と匂わせている尋道だった。
「仕方ないな。ぽんこつ同士で力を合わせるか」
「奥村君は週に六日活動されるそうなので、神宮寺さんと正村さんで三日、僕も三日にしましょう。伊澤君は週に五日なので、斎藤さんが三日、僕は二日です」
それぞれの主たる担当者たちを補佐する形で、尋道が双方を渡り歩く形が完成した。
「斎藤さん。この後のご予定は?」
「ないよ。今日は直帰、って言ってある」
「では、僕と一緒に行きましょう。伊澤君と重工野球部の方たちに引き合わせますよ」
「よっしゃ」
尋道が運転席、みさとが助手席に乗り込んだ。カラーズの「両輪」の出動である。この二人が動いた以上は、万に一つの失敗も考えられない。会心の笑みを浮かべた孝子は、遠ざかるテールランプに向かって、手を打ち振るのだった。




