第四七二話 タイニーステップ(一三)
四月の末日は、カラーズが新たに導入する社用車の納車日だ。大学に登校していた孝子が、わざわざ神奈川ワタナベ海の見える丘店まで、うきうきと出張っていくのには理由がある。車好きの麻弥がべらべらと語ったところによれば、社用車は孝子の愛車と同モデルのグレード違い、という。具体的な相違点はエンジンの種類だ。全く別物の乗り味と聞いては、これが試さずにいられようか。
指定の午後二時よりも、孝子は相当に早く、店舗に到着した。
「お早いお着きですね」
車を降りた孝子の元に、担当営業の蟹江圭史が駆け付けた。
「居ても立ってもいられずに。蟹江さん。どれですか」
「こちらです」
蟹江が示したのは、駐車場にとめてあった黒い車だ。
「乗り心地が、かなり違う、って聞いて。あの人たち、早く来ないかな」
つぶやきと、ほぼ同時だった。店舗の敷地内にマリンブルーの車が、ぬっと乗り入れてきた。みさとの車だ。助手席に尋道、後部座席には祥子の顔が見えた。
「なんで、もういるんだよ。一時間前だぞ」
顔を合わせるなりみさとがののしってくる。
「遅いよ。君たち」
「お待たせしないよう、受け取りを済ませておこうと、早めに来たのですが、甘かった」
「初めて郷本君に勝った気がする」
「蟹江さん。斎藤さん。速やかに手続きをお願いします」
みさとと蟹江は店舗に入っていった。孝子、尋道、祥子は車の周囲に居座る。
「さっちゃん。もう免許は取れた?」
「まだ二週間ぐらいしかたってませんよ」
「私は二週間ぐらいで取ったよ」
「え……」
祥子の顔に、きれいな丸が三つ、出現した。
「あ。また、そんな顔して」
孝子は祥子の尻をはたいた。
「郷本君。この子と伊澤さんたら、私たちが浄君を買った理由を聞いた時も、こんな、ばかを見るみたいな目で」
「ち、違います! そんな、失礼なこと、絶対に思っていません!」
「ちなみに、神宮寺さんは、どのような理由で伊澤君を評価されたんです?」
「シニアに、なんとなく似てる」
「いいじゃないですか。往年の名選手を彷彿とさせる、なんて、スポーツの世界では頻出するフレーズでしょう。何もおかしくはありません」
一息ついて、尋道は続ける。
「私たち、ということは那美さんと僕もばかだと思われましたかね。身体能力は、かなりの高率で遺伝する、と言われているじゃないですか。日本の女子バスケットボール史上、屈指の好選手である伊澤まどかさんの実弟もまた、ああいう恵まれた体躯を持っていたわけですよ。二人の身体能力は遺伝的要因によるものとみて、間違いないでしょう。とくれば伊澤君も、正しいトレーニングを積めば、お姉さんと同等に大成する可能性は、大いにあります。那美さんが伊澤君を推した理由は、まさに、この一点にありましたし、僕も、その考えには完全に――」
「郷本君や」
孝子は尋道の朗々たる弁舌を遮った。
「はい」
「そんなに怒らないで」
「いえ。怒ってはいません。ですが、言い方がきつかったのなら謝ります」
尋道の目にも入ったのだ。祥子は深くうなだれ、形のよい顎が、胸元に付きそうである。
「隙のない人だからね。その人が、満を持して攻め込んできたら、大抵は守り切れずに、押しつぶされちゃう」
「以後、気を付けます。高遠さん。すみませんでした」
「いえ。私たちも考えが足らなくて。申し訳ありませんでした」
「話を元に戻すんだけど」
戻ったのは祥子の免許についての話題だ。
「さっちゃんは、今、どのあたりまで教習が進んでるの? 路上には出た?」
「い、いえ。まだ。次で、みきわめです」
奥村紳一郎の帰国は五月の半ばだったはずだ。普段は伊澤浄のサポートに従事する尋道だが、奥村の帰国中は彼の担当にくら替えし、その間の代理は祥子が務める、という予定になっている。
「郷本君。無理じゃない?」
残り半月で、第二段階が丸ごと残っているようでは、厳しいと言わざるを得ない。
「伊澤君のサポート、って何をやってるの? 私でもできるようなら、さっちゃんが免許を取るまで、手伝ってもいいけど」
「できますよ。今は、ボールを使わない、ひたすら基礎の基礎をやってます。走り込みとか、筋トレとか。その補助ですね。僕がやっているのは。あと、サポートではないですが、野球部の方たちとのコミュニケーションも、やってます」
「うわ。私にやらせたら駄目なやつだ」
「大丈夫です。神宮寺さん、外づらは抜群にいいでしょう。適当にあしらっていただければ、十分ですよ」
「なんてことを言うのかね。君は」
「まあ、連休中に詰めてますので、検定で手こずらない限りは、高遠さん、ぎりぎり間に合う予定ですが。もしものときは、お言葉に甘えさせていただきますよ」
「はあい」
と、そこに、みさとの声だ。蟹江を引き連れて店舗を出てきた。
「諸君。車体の確認を頼むよ」
それが済めば、受け取りを書いて、納車は完了だ。お待ちかねの初乗りである。孝子は勢い込んで黒い車体へと取り付いた。




