第四七一話 タイニーステップ(一二)
「――あのさ」
大型連休が目前に迫った、四月下旬の朝だった。海の見える丘の食卓である。食事の途中で、おずおずと麻弥が言い出してきた。
「何?」
「お前、連休は、どうするの?」
「どうする、とは?」
来月半ばに実施される司法試験予備試験の第一関門、短答式試験に向けて勉強に励むだけだ。他にはなんの予定もない。麻弥だって先刻承知のはずだ。
「集中、できないだろ? 池田には舞姫の寮に行っててもらって、お前は鶴ヶ丘に行ったらいいんじゃないか?」
わけのわからないことを麻弥は言ってきた。
「なんで」
そのような面倒を、あえて行わなければならない理由とは。言い出した麻弥の思慮がわからぬ。孝子、不審だった。
「いや。私、ちょっと、予定があって」
「ほう」
「泊まりがけで」
これ以上は聞くに及ばずだ。麻弥の顔面は真紅に染まり、額にはうっすらと汗がにじんでいる。恋人と、どこかへしけ込むつもりとみえる。
「急だね」
「いや」
なんのことはない。大型連休を利用した長期の旅行は、だいぶ前から決まっていたのだが、気恥ずかしくて報告が直前にずれ込んだだけであった。
「ねんね」
「誰が、ねんね、だ」
「君だよ」
とにもかくにも、全容は判明した。現在、海の見える丘の家事、雑事を一切合切買って出ているのが麻弥だ。試験を間近に控えた親友の助けになろうとしてか、実にまめまめしく立ち働いている。自分が不在の間、孝子は勉強にまい進できなくなる、と心配なのだろう。そういった面において、佳世は当てにならない。
「話はわかった。じゃあ、そうするよ」
せっかくの厚意だった。むげにするものではない。
「佳世君も、それでいい?」
「嫌です。仲のいい人もいないのに、舞姫寮になんか行きたくありません」
「黒瀬さんと香取さんがいるじゃない」
「あの二人とは仲よしでもなんでもありません。私がナジョガクで仲がよかったのは、北崎さんだけです。お姉さんにお供させてください。わんこさんとも会いたいです」
「それでもいいよ」
「決まりだな」
ほっと一安心した様子の麻弥は、大型連休直前の月末に、恋人と連れ立って隣県の温泉地へとたった。二人を見送った孝子と佳世は、そのまま登校だ。
普段どおりの学校生活を送り、夜は一路鶴ヶ丘に向かう。
「うわ。きれいさっぱりなくなりましたね」
神宮寺家の敷地に車を乗り入れるなり、佳世がうなった。解体工事を終えた「本家」を指している。孝子はちょくちょく訪ねているが、佳世は久しぶりの鶴ヶ丘だ。がらんとしたありさまに、驚愕するのも無理はなかった。
「今は、暗くてよくわからないと思うけど、基礎はもうできているんだよ」
「あ。なんとなく、わかります。完成は、来年でしたっけ?」
「うん。私の卒業までには、って聞いてる」
「楽しみですよー」
孝子と春菜にくっついて、新たな「本家」で暮らす予定の佳世である。
「二人とも、お帰りー」
車を降りると、那美が赤柴のロンドを抱えて寄ってきた。孝子の存在に感応したロンドに導かれ、待ち構えていた、と那美は言うが。どんなものか。
「犬。元気だった?」
受け取ると、孝子の腕の中でロンドは大暴れだ。一心に甘えてくる。生後一年半は、ぼちぼち成犬といっていい。小柄なほうというが、出会いの時からすると、ロンドも成長した。
「お前。もう子犬じゃないんだよ。甘ったれないの。こら。重い。危ない、って。駄犬。捨てられたいの?」
「ねえ。わんわん。そんな冷たい人とは縁を切って、私を真の飼い主と認めるべき」
「それがいいよ」
言った瞬間に、ロンドは再び大暴れだ。激しさは倍加している。
「何。何。わかった。わかった。お前は私の犬。はい、かわいい、かわいい」
なで回してやるとロンドは収まった。孝子はロンドを抱えたまま「本家」の工事現場に向かう。
「犬は、暗いところでも大丈夫なんだっけ? 見える? ここに、おうちが建つんだよ。そしたら、私、住むよ。一緒に暮らせるね」
ロンドが応えて、クーンクーン、とやる。
「うはははは。駄犬めが。喜んでおるわ。虐待の限りを尽くされるとも知らずになあ」
「あんな意地悪を言って。絶対に私のほうがわんわんを愛しているのに。おかしい。間違ってる。池田さん、どう思う?」
那美の愚痴が聞こえてくる。
「うーん。わんこさんの視点で見た、お姉さんと那美さんの差、ですよね。なんだろう。……あっ。頼りがい!?」
「私には頼りがいがないだとー!」
那美の声といい、続いた佳世の悲鳴といい、午後一〇時を回った住宅地で出す音量ではない。
「こら! 静かにしなさい!」
言うまでもなく、孝子の怒声も、である。




