第四七〇話 タイニーステップ(一一)
ほぼ、に皆無の意味はない。孝子が舞姫館を訪ねようと思い立ったのは、出勤の頻度を尋道に評された、そのわずか二日後であった。新たにカラーズの一員となった祥子の様子を見るつもりでいた。
四月中旬の土曜日、早朝の国道を、一路launch padへ向かっている途中だった。信号待ちの先頭にいると、対向車線の車が、何やらしきりにパッシングしてくる、という場面に遭遇した。自分、なのか。薄い水色の軽自動車に見覚えはないが。目を凝らせば、運転席に座っているのは舞姫の栗栖万里とわかった。助手席は、こちらも舞姫の諏訪昌己だ。休日にドライブとしゃれ込んでいるのだろう。パッシングを返し、すれ違いざまに手を振りながら、ふと考えた。確認もせずに来たが、祥子も外出しているかもしれなかった。そのときは、仕方ない。launch pad隣のサービスステーションに行って、コーヒーでも飲もう。
舞姫館に到着し、エントランスホールに入ると、見知った顔が二人と見知らぬ長身の男が話し込んでいた。いや。男と呼ぶには少し間がある容貌だ。少年あたりが適切か。噂の伊澤浄とみた。三人は、いずれもジャージーに身を包んでいる。
「お姉さん。おはようございます」
三人が駆け寄ってきた。
「おはよう。この子が、野球の子?」
「はい。伊澤浄といいます」
「今日は、ここで練習?」
「はい。重工さんの野球部が、土日は休みか、対外試合か、なんすよ。で、自主トレ用のメニューをもらってるんで、ここでやらせてもらおうと思って」
「私たちは、名門の実業団が、どんな練習してるんだろ、って興味本位で、まあ、付き合ってやるか、と」
「せっかくの土曜日に熱心だね。さっき、栗栖さんたちとすれ違ったけど、君たちは遊びに行ったりしなくてよかったの?」
祥子とまどかが、ちらりと視線を交わし合った。
「お姉さん。栗栖さんと諏訪さんは、今日、お仕事です」
おずおずとまどかが言ってきた。
「え?」
二人は新舞浜トーアで営業する舞浜ロケッツのオフィシャルショップに向かった、という。
「お。そうか。ああいうお店だと、土日こそ書き入れ時か」
「はい」
うなずき、祥子は続けた。
「今月いっぱい、お二人はショップ勤務です」
舞姫の支援者であるロケッツの社長、伊東勲が提示してきた舞姫たちの勤務先は、一にロケッツオフィスのスタッフ、二にロケッツが抱えるユースチームや開催するクリニックのスタッフ、三にオフィシャルショップのスタッフ、となっていた。一カ月ずつの計三カ月、OJT配属を実施し、適性を見極めたうえで、最終的な配属先を決定する流れとか。
「今は距離的にいえば、ショップ組が当たりか。でも、ロケッツ館が開館したら、一気に外れになるね」
現在、ロケッツがオフィスを構えているのは、舞浜市の北西部、碧区碧町だ。廃校となった小学校を活用している。
「行ったことはないんですけど、ロケッツのオフィスって、ここから、だいぶ距離があると聞いてます」
「車で、一時間。電車なら、一時間半ぐらい、かな」
「遠いですね」
「でも、しばらく我慢すれば、お隣で、徒歩三〇秒ですよ、先輩。私たちは、徒歩零秒ですけどね」
「よし。おしゃべりは、これぐらいにして、そろそろ自主トレとやらに行けい」
とりとめもなくなってきたところで、孝子は強引にまとめた。
「あ。お姉さん」
「なあに」
「社用車、ありがとうございます。一カ月後までには、なんとか運転できるようになりたいと思います」
「その意気。聞いてるかな。私の車と同じやつ。運転しやすいしよ。中も意外と広くてね。彰君を乗せたことがあるんだけど、普通に乗れてたし、野球の子でも大丈夫と思う」
「まさか、祥子さんに送ってもらえるなんてね。郷本さんには申し訳ないけど、ずっと祥子さんがいいな」
「ふざけるな。このがき。言っただろ。舞姫の練習と重なってる、って。お前のせいで先輩が練習に付いていけない、なんてなったら、許さないぞ」
「そうなったら、俺の年俸で責任を取るよ」
あっけらかんと浄は、とんでもない発言をする。
「本当に腹立つ。お前みたいな根性なしが、プロになれるわけないだろ。そんなに甘くないよ」
一気にまどかは言ってのけた。憤っている。相対するきょうだいの、弟のほうを孝子はしげしげと見た。均整の取れた長身は、誰かを思わせるような気もする。身長なら近いのは雪吹彰だが、彼ほどに浄の線は細くない。あれこれ考えるうちに思い至った。アーティの父親、エディ・ミューア・シニアだ。去る二月にレザネフォルを訪れた孝子は、アメリカプロ野球史に残る偉大な投手として知られるシニアと面談している。記憶の中の像と浄が重なったのだ。無論、背格好が似通うからといって、人生行路まで同様になる保証は、どこにもなかったのではあるが。
孝子の思案が一段落しても、依然として伊澤きょうだいの対決は続いていた。
「それぐらいにしておきなさい」
仲裁の声を掛けると、ようやく両者は臨戦態勢を解いた。
「私も、野球の子、なんとなく活躍しそうな気がしてきた」
正反対の感情が、きょうだいそれぞれの顔に浮かび上がった。
「お姉さんまで、なんなんです? 那美さんといい、郷本さんといい、絶対にはずれですよ、こいつは」
そもそも、だ。発端となった那美と、事を継承、発展させた尋道には、いかなる存念があったのか。尋道の挙に注文を付ける孝子ではなかったし、その尋道は那美について触れなかった。よって孝子は何も知らぬ。
「どうだろうね。伊澤君や。詳しく聞いてないんだけど、うちの愚妹と郷本君は、君のどこを買ったのかな。二人は何か言ってた?」
「あ。そうなんですか。でも、これ、言っていいのかな。まあ、もうぽしゃったし、いいか」
そう言って始めた浄の話は、契約金うんぬんも含めた、完全版、だ。
孝子は笑いが止まらない。那美は浄の自薦を真に受け、尋道に至っては町内会報ときた。
「そろいもそろって、ひどいな」
「ということは、お姉さんの理由も、ひどいんすか?」
「君がエディ・シニアに似てると思って。わかる? エディ・ミューア・シニア。アートのお父ちゃん。昔、ものすごいピッチャーだったって」
祥子とまどかに、声なし。硬い表情は、あぜんぼうぜんの思いを、なんとか糊塗しようとしているのが明白だ。一方、浄だけは陽気である。
「エディ・シニアも、確か、レフティーだ。俺、そんな人に似てるのか。これは、プロ、いただきっすね」
「野球の子、いいね。スター性を感じる。頑張れ。頑張れ。よし。自主トレに行けい」
またぞろまどかが浄にかみつきそうな気配があった。察した孝子は先手を打つ。
三人を体育館棟に去らせると、四人以外の人影のなかったエントランスホールには、孝子一人となった。もはや帰るのみだが、正味一〇分ほどで帰宅するのは、来たかいもない。結局、隣のサービスステーションでコーヒーを飲む羽目になったようだ。苦笑の後、孝子は身を翻して舞姫館を出た。




