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未知標  作者: 一族
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第四六話 五月晴(一一)

 七月中旬の金曜日。孝子はこの日が前期の最後となる、北ショップでのアルバイトだった。週明けには前期の考査期間となるため涼子の配慮であった。また、考査期間が終了すると大学は夏季休暇に入る。夏季休暇中は一般生徒の登校がなくなって客足は激減する。この間のアルバイトも休みだ。次回の出勤は後期まで飛ぶ。

「しばらく神宮寺さんと会えないのね。お姉さん、寂しい」

 午後六時を過ぎて、客足も遠のいたところで、涼子のおどけた声だった。机に広げていた業務日誌から顔を上げ、孝子を見る。ハンカチを取り出して、目元を拭うふりまでする周到ぶりだ。

「私も涼ちゃんさんと斯波さんの掛け合いが、しばらく見られないのは寂しいです」

「……そういえば、神宮寺さんの靴って、ちょっと変わってるよね。ソールが」

 孝子愛用のドライビングシューズは、ソールがかかとの高い位置までカバーしている。ペダル操作時の滑り止めと、かかと部分の損耗を緩和するためだ。

「ドライビングシューズです」

 応じて孝子は涼子の明白なかわしを、あえて追求しないことにした。あまりにつつき過ぎるのも、いやらしいではないか。

「運転、好きなの?」

「はい。マニュアルが」

 へえ、と涼子はうなりながらうなずいた。

「私も、免許だけは限定じゃないのよ。万全を期したの。これまでに一度だってマニュアルを運転する機会はなかったけどね。ええと、どうだったっけ……?」

 目を閉じ、涼子が左右の腕を何やら動かしだした。左手がシフトレバー、右手はハンドルをにある、という想定のようだ。

「まず、エンジンをかけます」

「クラッチを踏まないと、エンジンはかかりません」

 目を開き、涼子は頭を抱えた。

「そうだっけ?」

「今は、そうです。昔は、それでもかかったみたいですけど。もしかして、涼ちゃんさんのころは、その手順で教わった、とか?」

「昔って、どれくらい、昔なの……?」

 知識は、自動車教習所で孝子の担当だったベテラン教官の受け売りだった。五十路以上とおぼしき彼が、若いころ、と語ったならば、

「二〇年ぐらい前じゃないですか?」

 孝子は言った。

「ひどい。神宮寺さん、ひど過ぎる」

 立ち上がった涼子がレジに立つ孝子の隣に来て、軽く体当たりだ。こらえきれず、孝子は噴き出している。

「ごめんなさい。こんなきれいな四十路はいませんね」

「そうよ。もう。……どんな車に乗ってるの?」

「SUVです」

「そうなんだ。なんとなく、小さめの外車じゃないか、って思ったんだけど。違ったね」

「国産車ですよ」

「今度、見せて」

「はい。よろしければドライブに行きませんか」

 出会ってからの時間は短いが、孝子はこの年上の佳人に好意を抱いていた。より近しくなりたい、と思ったが故の申し出だった。涼子に限らず、年上の、さっそうとした女性は、孝子の大好物だった。養家の美幸、美咲の姉妹や恩師の長沢、最近では、舞浜大学女子バスケットボール部監督の各務も、その系統だ。全ては、幼くして亡くした母への思慕へとつながるのである。遺書でみそを付けた響子だが、それ以外の母に、なんらの遺憾があるわけではない。決してかなわぬ、長じてよりの響子との触れ合いを、年上の女性たちとの交流に擬しているのだ。

「いいね」

 孝子のひそかな期待に応える、涼子の満面の笑みだった。

「いつなら都合がいいですか?」

「取りあえず、神宮寺さんの試験が終わってね。土日なら、基本的に、いつでも」

「はい」

「そんなに遠くなくて、景色のいい所とか、おいしいものがある所がいいよね。ああ。ホテルのデイユースとかいいかも」

「あ。食事は、任せていただいてもいいですか? 私、アレルギーがひどいので。お弁当、手配します」

「わかった。じゃあ、景色重視で探すね」

「いいですね」

「よし、ちょっと頑張って調べよう」

 机に広げていた業務日誌を隅に押しやった涼子の瞳は、きらきらと輝いている。それを見て、勤務中ですよ、と言った孝子の顔も、見る見る笑み崩れていくのだった。

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