第四六七話 タイニーステップ(八)
通話の後に、思わずうめいていた。武藤瞳のドラフト指名を受け、Colours of Sealthの出動を、と孝子に提案しようとした尋道だったが、一足遅かった。既に孝子は川相倫世に瞳の支援を依頼していたのだ。その迅速さには感嘆するしかなかった。
「どうなった?」
尋道の通話する声が聞こえていたのだろう。麻弥が尋ねてきた。
「あの人にはかないませんね。川相倫世さんに連絡して、対応を依頼済みでした。いざ動いたときの突破力は、本当にすさまじい」
「なかなか発揮しないのが玉にきずだけどな。でも、お前も、よくドラフトのチェックとかしてたよな」
「カラーズには故事があるでしょう。当時、全くの無名だった市井さんよりも、ゴールドメダルを取った武藤さんのほうが、指名される可能性は高い、と思ってましたので」
「でも、事前の売り込みには、全然、反応がなかったんじゃなかったか?」
「それはそれです。可能性がある以上、僕は備えます」
「そこは、お前らしいんだけど、カラーズには関係ないのに、よくやるよな」
関係はある。武藤瞳は孝子が目を掛ける同県人だ。彼女に不測の事態が起これば、あの親分肌の人は必ず立ち上がるだろう。そのとき、求められれば直ちに補佐を行えるよう、用意万端整えておくことは、尋道としては当たり前なのだが、主張するのも由なかろう。麻弥に、やゆする意図があったとも思われない。尋道は曖昧な笑いで会話を打ち切った。
なんにせよ、武藤瞳の件は終わった。倫世が手掛けるのであれば、尋道の出番は訪れない、とみてよい。何をするでもなく一息ついた形となった。切り替えて、昨夜に届いた依頼に集中する。依頼人の名は、奥村紳一郎である。オフのトレーニング施設を探してほしい、と言ってきた。現在、イギリスリーグでプレーする奥村は、来月の半ばに帰国する。オフは一カ月余りと、かなり短いが、その間に利用する施設だ。
「……あの。郷本」
「はい」
麻弥が声を掛けてきた。
「気を悪くしたなら、ごめん。からかったりとか、そういうつもりじゃなくて。入念だな、って感心して」
黙然としていたのが勘違いを誘発したようだ。尋道は首を横に振った。
「わかってます。そんな嫌みを言う方ではありません。別件です。別件で、ちょっと悩んでいましてね」
「どんな? あ。私に言っても仕方ないか」
「いえ。聞いていただきましょうか。正直、持て余し気味なので、別の視点から考えてみてくださいよ」
「お前が駄目なのに、私でどうにかなるとは思わないけどな。うん。でも、聞かせて」
「奥村君が、オフのトレーニングに使う施設を探してくれ、と言ってきましてね」
「奥村なら、F.C.に頼めばいいんじゃないのか?」
「彼、もう、F.C.さんを忘れてます」
麻弥と同じ問いを奥村に投げ掛けた時の、奥村の反応には、さしもの尋道も驚愕したものだ。
「ベアトリスさんへの移籍が完了した以上、F.C.さんとの縁は切れた、眼中にない、と。すごいですよ。北崎さんがかわいらしく思えてきませんか」
「至上の天才」の名を出て、麻弥、舞姫島の人たちが一斉にむせ返った。
「さあ。正村さん。『至上の天才』を超越する男を、どう扱えばいいと思いますか?」
「どう、って……。え。そんな急に思い付かないよ。お前は、全然、お手上げなの?」
「ですね。紹介した施設で奥村君が不義理をすれば、カラーズの顔が泥まみれになるでしょうし」
そんなような事態を避ける一つの手法は、マネージャーとして同行し、できるだけ奥村を他と接触させぬように掣肘することだ。ところが、これをすると、次なる問題にかち合う。
「あいにくと僕は伊澤浄君のサポートもしなくてはいけないんですよ」
尋道の売り込みが奏功し、浄は重工野球部への参加を認められた。何しろ、たって希望した話だ。重工野球部の厚意を、あだやおろそかにはできない。継続的な種々の配慮が必要になるはずだった
「幸い、奥村君が日本に戻ってくるのは一カ月ちょっとなので、その間だけ乗り切れたら、と思うんですが。どうです、正村さん?」
「私に、あいつのマネージャーをやれ、って? できるかな?」
「イギリスでも札付きの問題児ですけど、正村さんの貫禄で、なんとか」
続いて尋道が披露したのは、奥村がイギリスで記した武勇伝だった。とにかく、愛想が悪い。チーム関係者、ファン、ジャーナリスト――これら全てを分け隔てなく、平等に無視する。やつの声を知らない、とあきれ果てたチームメートの話やサインをねだるファンの子供に一瞥すらくれなかった話、あらかじめベアトリスFCに会見免除の条項を飲ませており、ついにジャーナリストと一度も相対しなかった話、等々。枚挙にいとまがない。
「お前。そんな話を聞かされて、私がやると思ってるのか」
「大丈夫、大丈夫、でだまして引き受けていただくのも、ひきょう、と思って」
「まあ、それは。そもそも、さ。あいつ、海外にすごい条件で移籍するぐらいだし、いいエージェントがいるんじゃないの? なんで、そっちじゃなくて、お前に言ってきたんだ?」
「彼が契約しているエージェントは、今、あるいは次のクラブとの契約交渉しか担当しません。海外では割と一般的だそうですよ」
「そういう理由か……。あ。佐伯に頼むのは? あいつなら奥村とも仲がいいだろ」
カラーズの契約アスリートの一人である佐伯達也は、U-22およびU-23のサッカー日本代表チームと舞浜F.C.で奥村と盟友関係にあった人物だ。唐変木の悪名高い奥村が、唯一、親しく交流していた相手である。
「佐伯君はシーズン真っ最中です。いくら仲がよくても付き合えませんよ」
「そっか。お前が手詰まりになるぐらいだもんな。当然、この程度、考えてたか」
渋い笑いが二人の顔に浮かぶ。
「でも、どちらかしか選べないなら、私は、奥村の担当はお前がいいと思うな。重工のほうは、なんというか、細心の注意を払えばこなせそうだけど、奥村のほうは、それじゃ通用しない気がするんだ。お前に連絡入れてきたぐらいだし、相性もいいんだろ?」
「おばさんの覚えがいいので、必然的に、奥村君も僕に好感を持っているようですね」
「そういえば、おばさんのご機嫌伺いみたいなのを頼まれてたっけ。あれ、全然、お呼びが掛からなくて、何もやってなかったけど、お前はちゃんとやってたの?」
「ええ。男の子のお母さんでしょう。男の子が接しやすいそうなので、佐伯君と僕で」
「そういう感覚もあるのか。じゃあ、うちの両親だったら、男の子相手だと身構えたりするのかな?」
麻弥は正村家の一人娘だ。
「かもしれませんね。その点、うちは一人ずつなので、両方に対応できそうです」
郷本家は一姫二太郎だな、などとたわいもない発言が麻弥の口から飛び出した。とがめるでもなく尋道も応じる。あぐねるあまりに、とうとう雑談に流れたのだ。要するに、現実逃避である。
「郷本さん」
見ると、舞姫島の祥子が挙手していた。その双眸に、静かな決意の輝きが宿っていることを尋道は見て取っていた。




