第四五九話 乱れ髪(二二)
基佳の父親、島津シェフとの交渉は、つつがなく終わった。料理人としての地歩を固める奇貨となろう。やぶさかでない、と心強い回答を得られたのである。とくれば、後は専門家に任せたらよい。素人は成果が上がってくるのを待つのみだ。
翌朝、報告を携えてオフィスに出向くや、中村と彰がそろって歩み寄ってきた。
「びっくりした。大男二人が迫ってきて。ひかれるかと思った」
共に長身の二人は、中村が一八八センチ、彰が一九二センチある。
「いやいや。神宮寺さん。素晴らしいお部屋をありがとうございました。ここまで三〇分足らずで着きましたよ。半分以下です」
「それはよかった」
中村の話によれば、小磯駅至近の2LDKは、浴室の広さに象徴されるゆとりで、すこぶる快適という。
「一カ月、存分に使わせていただきます」
「はい。こっちは、郷本君に絞られたの?」
中村の隣でかしこまっている彰をつつく。
「いえ。親身にご指導いただきました」
「うわ。これはねちねちやられたな。かわいそう」
「ねちねちやってません」
カラーズ島の尋道が応じた。
「僕が知る、神宮寺さんに怒られない秘訣を伝授しただけです。一秒で済みましたよ」
「はい。一秒で言ってみる」
「逆らわない」
違いない。
「圧倒的にボスなんですよ。われわれとは価値観が違います。この大前提を忘れて、うっかりせんえつなまねをすると、怒りを買うことになる」
「でも、雪吹は、そんなつもりで言ったんじゃないだろ?」
一緒に出勤してきて、隣にいた麻弥が言った。
「雪吹君が、どんなつもりで言ったか、なんて関係ありません。ここで重要になってくるのは、神宮寺さんが、どう受け取ったか、です」
「私の好意をむげにしやがって、このやろう」
当時の心境を孝子は披露した。
「逆に中村さんは、さっぱりと受けてくれて、うれしかったな」
「実にボスらしい受け取り方じゃないですか。今の話、忘れないようにしましょうよ」
尋道のまとめで、この話題は終了となった。自席に着いた孝子は、改めて尋道に対峙する。
「郷本君。次は、こっちの話」
「伺います」
「島津さんに、ご了解いただいた。あとは、果報は寝て待て」
「なるほど。時に、ボックスは左右に三部屋ずつの計六部屋ありますが、全て、『ア・ラ・モート』さんにお任せするんですか?」
「うん。オードブルボックスで提供する形になると思うから、ある程度の数はこなせる、っておっしゃってたし」
「プロフェッショナルが、そうおっしゃるのなら、問題なさそうですね。となると、次はホスピタリティーですか。接客も『ア・ラ・モート』さんに?」
「そもそも、そんな話は、してない」
尋道が反応を見せるまでには数瞬の間があった。
「それは、ひょっとすると先方は、オードブルボックスを納めさえすればいい、と認識している可能性がある、という話ですか?」
「かもね」
見ものであった。尋道が矢継ぎ早にかけた電話の相手は、島津シェフと斎藤みさとだ。追加の談合の開催と談合への参加を、それぞれに要請し、受諾を得ている。
「引き継ぎます」
一仕事を終えた尋道は宣言した。
「よろしく。ごめんね。ぽんこつどもで」
複数形にしておいて、孝子は自虐する。
「いえ。開いていただいた道をならしていくのが、僕の役目なので」
「おい。そっちのぽんこつは、どうした」
深々とうつむいていた麻弥の肩をつついた。
「私も郷本と同じ役目のはずなのに、全然、思い至らなかった。駄目だな、私は」
「では、名誉挽回しますか?」
「え……?」
内向の気がある麻弥だ。思い切ってこき使い、気晴らしをさせるべし、とは後に尋道が漏らした操縦術であった。
「正村さん。『ア・ラ・モート』さんは、スタッフ、どれくらいいそうでした?」
「あの広さだと、多くて、七、八人じゃないか?」
「僕たちが、昨日、入った部屋で、一〇人前後は入れられそうだったんですよ。全部が同じ造作なら、最大で六〇人程度をさばく必要がありますが、足りないでしょうね」
「どうする?」
「手が足りないといえば、こちらもですし、厳しいですね」
舞姫の抱えるスタッフは、全員が現場の人たちでもある。そして、フロント的な立場のカラーズには四人しかいない。しかも、学生の孝子と税理士修業中のみさとが身動きできないため、実働部隊は、たった二人となる。
「ない袖は振れません。他の力を借りるしかないでしょう」
「他って、言っても……。あ。おばさんに頼んだら、いいんじゃないか? おばさん、顔が広いし、そういう知り合いもいそう」
launch padの整備を例に引くまでもなく、神宮寺家当主の張る隠然たる勢力は、絶対になまなかでない。求める人材にも、きっと心当たりがあるだろう。麻弥の発想は適宜といえた。
「それだ」
「孝子」
「正村さん。名誉挽回と言ったでしょう。あなたがやってください」
叱声に、麻弥は目を丸くしている。
「う、うん。わかった。行ってくる」
立ち上がった麻弥に、二度目の叱声が飛んだ。
「先にアポを取って。ビジネスです。それに、あらかじめおおよそをお伝えしておけば、おばさんなら正村さんが鶴ヶ丘に着くまでには、なんらかの思案をまとめてくださっているでしょう」
眺める孝子は、直立した麻弥と端座する尋道との対比に、笑いをこらえるのに精いっぱいである。なんとも奇妙なコンビが誕生したものだ。




