第四五話 五月晴(一〇)
このところの麻弥は、スマートフォンのゲームにのめり込んでいる――ように孝子と春菜には見られている。プレーしているのは、擬人化された自動車でレースをする、というゲームだ。暇さえあれば、という感じで大音量を垂れ流している。
「なんで、こういうゲームって、女ばっかり出てくるんだろ。もっとおじさんとか出してもいいじゃないか」
うっかりと愚痴ってしまい、春菜に、正村さんはおじさんが好きなんですか? などと返されて、呼吸の止まりそうになっている麻弥だ。
「いや、ほら、見ろよ、これ。われらがウェスタが、このありさま」
麻弥のスマートフォンには、幼い少女に擬人化されたワタナベ・ウェスタが表示されている。
「やっぱり、顧客層を反映しているんですかね」
「逆じゃないか? こういうデザインがあるんで、そういう顧客が集まる」
「ああ。きっと、そっちですね」
「……麻弥ちゃん、私、これ、気に入らない。ウェスタは、こんな小さな子じゃないよ」
「どんな子なんだ。描いてみるよ」
おじさん好きの疑惑を逃れるため、自分の趣味を利用することもいとわない麻弥だった。別に、恥ずかしがらなくても、麻弥が年上好きであることを、孝子は承知しているのだが。
興が湧いた、という顔で、麻弥はその週末に画材を買いに出た。麻弥は一人だ。お互いの趣味にまつわる外出の際は、要望されない限り、同行はしないのが孝子との暗黙の了解である。春菜も、前回の孝子の外出時で、それを察して、麻弥を見送っている。
麻弥の行きつけの画材店は舞浜駅西口にある。ウェスタを描く、ということで、青系の絵の具を多めに買って、店を出る。普段であれば、行って、買って、帰って、で一時間ちょっと、というのが麻弥の外出だ。しかし、この日は、ここからが本番なのだ。喫茶「まひかぜ」を訪ねる。あわよくば、剣崎に会えたら、いい。これだった。
孝子が剣崎に自作曲を提出してからというもの、麻弥と剣崎とをつなぐ線は完全になくなっていた。その後の話題を孝子は、一切しない。そういえば、とただそうにも、それを麻弥は言い出せない。別に、恥ずかしがらなくても、麻弥が剣崎に興味を持っていることを、孝子は承知しているのだが。
麻弥が喫茶「まひかぜ」に到着したのは、正午を少し過ぎたあたりだった。混んでいるかも、という予想は裏切られ、扉をくぐると岩城が一人だ。剣崎の姿は、ない。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「今日は、一人?」
「はい。近くに来たので、コーヒーを、と思って」
「うん。ああ、それ、よかったら、こっちで預かろうか」
麻弥が画材を入れたトートバッグを抱えたままなのを見て、岩城が言った。こういう場合、床にものをじかに置くことを麻弥は好まない。
「すみません。お願いします。……あ、中は画材なんで、そんなに丁寧じゃなくて大丈夫です」
そろそろとトートバッグを扱ってくれる岩城へのせりふだった。
「気の利かない店で申し訳ないね」
物入れの一つもないことを、岩城は言っているのだ。総木張りの店には、余計なものは何一つない。コーヒーを淹れる場所と飲む場所があるだけだ。だが、それが、かえって、この店の雰囲気の生成に一役買っている気のする麻弥だった。
カウンター内の奥にある机にトートバッグを置いた岩城は、麻弥の前に戻ると、前回と同じ見事な手業でコーヒーを淹れた。
「いただきます」
カップを手に取り、まずはその深い香りを吸った後で、麻弥は漆黒の液体を、ゆっくりと口に含んだ。つと体を引いた岩城が、背面のカップボードの引き出しを開け、携帯電話を取り出した。折り畳み式のフィーチャーフォンだ。
「ちょっと電話します」
「はい」
視線を外して、麻弥は店の外を見た。偶然にも思い人が通りがかったり、などは起こるはずもない。
「……今、どこだい。女の子が来てるんだけど。この間の。……名前で言われてもわからないよ。……その子じゃない。ショートの子」
ぎょっとして、麻弥は岩城を見た。岩城が携帯電話を畳みながらうなずいた。
「下にいたよ」
「え……。は、はい……」
偶然にも思い人が通りがかったり、などは起こらなかった。しかし、喫茶店の店主が思い人に電話をかけてくれる、などは起こった。つまり、人生の先達には、小娘の顔色を読むぐらい造作はない、ということだったようだ。
すぐに剣崎が現れた。
「やあ。いらっしゃい」
「こんにちは……」
コンパクトを持ち歩く麻弥ではないが、このとき、もし鏡に顔を映せば、これ以上はない赤面の好例を見られただろう。剣崎の登場以降、麻弥はしどろもどろだった。期待していたくせに、期待どおりの展開には、動揺を隠せなくなるのだ。たわいないといえばたわいない。
「お嬢さんは、美術関係の学生さん?」
さすがに、この場の演出家である岩城も、いたたまれなくなったのだろう。トートバッグの中身より発生した問いに違いなかった。
「え、いえ、趣味で……」
麻弥は自らが孝子の愛車を擬人化することになった経緯を語り、プレーしているゲームの少女ウェスタをスマートフォンに表示して、二人に見せた。これこそ、麻弥が思い描いていた理想の流れ、だった。どの経路で、この展開に持ち込むか、については全くの無計画だったが、岩城さまさまの棚からぼた餅だ。
麻弥のプレーしているゲームは、剣崎が音楽制作を担当している。無論、偶然ではない。剣崎のことを調べる課程で知り、麻弥はプレーを始めた。もしも、もしも、剣崎と個人的に接触できる機会が巡ってきたら、その時の話の種にしたい。なんとも涙ぐましい麻弥の準備行動だった。
結論から言えば、この準備は完全な空振りに終わった。大きめの設定にしていた音量に、麻弥自身が驚いて、すぐに音を消してしまい、剣崎に彼の作品の存在を気付かせることができなかったのだ。剣崎は自らが関わったゲームをプレーしておらず、少女ウェスタを見せても、かわいらしいね、という感想を発するにとどまり、万事休すである。ずっと後になって、この日のことを麻弥が語っても、剣崎は思い出せなかったほどの、それはささいな一こまであった。




