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未知標  作者: 一族
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第四四話 五月晴(九)

 三人が舞浜駅西口のトリニティ舞浜ショールーム裏手にある剣崎の仕事場に到着したのは正午前だった。仕事場が入るビルの隣のコインパーキングに車をとめるや、孝子は怒り肩で助手席を飛び出していく。

「お姉さん。待ってください」

 春菜が孝子を追って傘を差し掛けた。傘をたたく雨音は激しい。

 地階への昇降口に三人が突入しようとしたときだった。

「やあ。いらっしゃい」

 声の方向を見ると一階の扉から剣崎が出てきた。喫茶店らしい。扉の脇には木製の立て看板があって「まひかぜ」と記されていた。

「やあ。遅くなって申し訳ない。請求書だね。ちょっと待っててくれるかい」

 地階へ下りかけて、剣崎は体を反転させた。

「そうだ。こっち」

 剣崎が導いたのは、先ほど彼が出てきた扉だった。

「どうぞ」

 入るなり、香ばしいコーヒーの匂いが三人を包む。壁も床も総木張りの店の中には、白髪の男性がいた。痩身と白と黒の上下が、どこか鶴を思わせる風格だった。

「岩城さん、コーヒーをお願いします。三人」

 言い残して、剣崎は外に出た。

「好きな席に、どうぞ」

 岩城と呼ばれた男性が、低く、乾いた声で三人に言った。店内に他の人影はない。

「失礼します」

 孝子がカウンターの、岩城の目の前に座り、その左右を麻弥と春菜が占めた。カウンターの向こうでは岩城が、コーヒーサーバーの上にネルを置き、ドリップポットで湯を注いでいる。

「私、ネルドリップのコーヒーって、飲むの初めてです」

 岩城の手業を眺めていた孝子がつぶやいた。幾分かは落ち着きを取り戻して、穏やかな声である。ほっと一安心だ。

「そう。お口に合えばいいけど」

「普段はインスタントコーヒーなんですけど、やっぱり、違いますか?」

 麻弥も会話に参加する。

「違うけど、最終的には好みだね」

 そこに剣崎が戻ってきた。

「おっと、お先にコーヒーをどうぞ」

 三人の前に漆黒の液体で満たされたカップが並んでいる。

「いただきます」

 豊かな香りと、ブラックで飲んだにもかかわらず感じられる甘みが鼻腔に残り続ける、という衝撃に麻弥は襲われた。孝子たちも同様の驚きを感じたようで、興奮して口々に岩城に感想を述べる。……普段、コーヒーや紅茶を飲む際に、事前にカップを温めることすら怠る横着者たちにとっては、それほどの出来事であったのだ。

 三人が飲み終わったところで、カウンターの隅に座っていた剣崎が孝子に近づいてきた。

「これが、請求書。まず、前にも言ったとおり、部品代についてはイレギュラーな方法で得たものなので、無料ということで勘弁してほしい。正直、値が付けられない」

 それ以外の出張基本料、技術料、交通費といった項目には相応の数字が書かれており、最終的に端数を値引きして出た数字は五万円だった。

「現金でもよろしいですか?」

「ああ。はい、領収書」

 孝子と剣崎は、現金と領収書とを交換する。

「もらう側が言うのも妙なせりふだけど、実は、踏み倒すつもりだったんだ。でも、斯波が言うには、そういうのが通用する子じゃないんで、やめてください、って」

 孝子は無言でうなずく。

「料金をサービスする、とか、せこいことじゃなく、それはそれできっちりともらった上での交渉じゃないと、可能性はない、そうだ」

「……交渉?」

「神宮寺さんの自作曲の件だね」

 孝子の表情が途端に険しくなる。

「……剣崎さん、しつこいですよ」

 鋭い口調に麻弥は首をすくめた。

「申し訳ない。これを最後にするよ」

「返事は変わりません。お断りします」

「そうか。残念」

 言葉どおり、剣崎は引き下がった。

「ここまでおっしゃってるんだし……」

 麻弥は思わずつぶやいていた。途端に孝子の「殺人光線」を食らって、さっと横を向く。

「剣崎君。どういう話だい?」

 店内を覆い尽くした重い静寂を破ったのは岩城の声だった。

「ええ。言い声してるな、と。初めて会ったときに思ったんですよ。で、実際、歌を聞かせてもらうと、やっぱり、いい。艶があって、伸びもあって。彼女、ケイトが好き、って話だったんですが、むしろ、ケイトそのものだ、ってね」

 そんな声の持ち主の、他の音楽的な面も知りたいと思った、うんぬん、という剣崎の説明に、似てる、どこかで聞いたことのある声と思ったら、ケイトか、と岩城が応じている。だいたいは、この時点で決まっていた。隣に座る孝子を見ると、初めて見るふやけた面なのだ。つまり、声がケイトに通ずる、と年長者たちに称され、浮かれたわけだ。自らの低い声を指摘されれば、聞けばわかることをわざわざ口にする、と、その時点で発言者に罰点を付けるような孝子にも、意外な急所がある、と麻弥は知ったのであった。

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