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未知標  作者: 一族
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第四四三話 乱れ髪(六)

 孝子が舞浜港と門津港を結ぶ長距離フェリーの存在を知ったのは、春谷に戻った翌日、行正病院を訪れたときだ。病院へは、亡母の主治医だった行正陽人医師に、舞浜土産を手渡すため向かった。

「あきれた。何をやってるの」

 院長室での歓談時に披露した、「春谷舞浜間軽バン往復」事件について返ってきた医師の述懐だった。四十路を過ぎてなお若々しい顔が、盛大にしかめられたものだ。

「私の勝手です。帰る」

「ああ。もう。待って」

 勢いよくソファを立ち上がった孝子よりも素早く、行正は部屋の出入り口前でとおせんぼうだ。

「気が短い子だなあ。誰に似たのさ」

「そんなの、あの母親に決まってます」

「だよね。はい。座る」

 渋々、孝子はソファに戻った。

「隆行や美幸さんには叱られなかった? 危ない、って」

「会ってません。でも、会ったら、絶対、小言があっただろうし、会わなくてよかった」

「うーん。まあ、一度ぐらいは、そういうむちゃもいいのかな」

「一度じゃないですよ。また来ますよ。今度は、私の車で。レンタカーは、期限もあるし、落ち着かない」

 行正は目を見張った。

「孝子ちゃん。やめよう。車なら、僕が貸してあげるよ」

「どうせオートマですよね。いりませーん」

「え。もしかして、孝子ちゃん、マニュアルなの?」

「そうですよ」

 のけ反った行正は、短い沈思の後に、こう言ってよこした。

「じゃあ、フェリーを使うのは、どう? 門津と舞浜の航路が、最近、就航したんだよ」

 フェリーとは新鮮な提案だった。早速、調べてみると、確かに、行正の言った長距離フェリーが就航していた。舞浜門津間を二〇時間強は、だいたい車で走破するのと同じぐらいかかる。ただし、こちらは、一切、疲れない。実に魅力的だった。これしかないだろう。

 船旅に思いをはせている最中の孝子が、門津から連想したのは高遠祥子の名だった。祥子は依然、門津造船所にいた。三月半ばまで出勤し、有給休暇の消化に入ったタイミングで舞浜に戻るそうな。

 めったにない機会だ。フェリーで帰らないか。孝子の誘いに、

「お供させていただきます」

 祥子はいかめしく返してきた。これで決まった。祥子の有給消化入りを待って舞浜に戻ることとする。

 そして、当日が来た。出港時刻は午前八時半、乗船は、その一時間前から可能になっている。できるだけ船内で過ごす時間を長くするべく、祥子には午前七時の集合を告げた。場所は門津港西埠頭の関九フェリーターミナルビルだ。

 海に臨む二階建てに、孝子が到着したのは午前六時三〇分である。道中、車の流れが順調に過ぎた。

「随分、早く着いたな。待ち合わせの子も、まだ来てないだろ」

 送迎を頼んだ倫世の母も、意外な成り行きに失笑していた。

 春谷に戻っていく車を見送った孝子は、身を翻してターミナルビルに突入した。海風が染みる。着込んできた薄手のジャンパーでは全く不足だった。予約は済んでいたので、外気とほとんど温度差がなく、寒々しい一階のチケットロビーは素通りする。二階に向かうエスカレーターの途中、視界に入ったのは、むき出しの鉄骨で組まれた天井だった。これは、上の暖房の効きは期待できないかもしれなかった。

 出港の二時間前だけあって、上がった先の出航ラウンジは、ひっそり静まり返っていた。案の定の寒さに震えながら周囲を見渡した孝子は、ラウンジに並べられたベンチ群の一角に見知った顔を認め、彼女、の元へと近づいていく。

「おはよう」

 声に、祥子がしゃっきり立ち上がった。こちらはベージュのステンカラーコートで隙なくまとめている。

「おはようございます」

「早いね」

「絶対、お姉さんより後に着かないよう、気を付けました。でも、危なかったです。まさか、こんなに早くいらっしゃるなんて」

「車の流れがよくってね」

 孝子は祥子の隣に腰を下ろした。

「座れ」

「はい。あの、それは?」

 孝子が持参したシンセサイザーのキャリングバッグを祥子は見ている。幅、奥行き、高さが、一五〇センチ、四〇センチ、二〇センチもある長大なやつだ。

「シンセサイザー。暇つぶしに触ってたの」

「ああ。お姉さん、舞姫の歌舞を担当されてるんですよね」

「素人だてらに、ね」

 祥子が岡宮鏡子うんぬんの知識を持っていたかは定かではなかったが、いずれにせよ、深掘りさせるべきではない。速やかに孝子は話題を転じた。

「しかし、ここ、寒いね」

「港は、とにかく寒いので、暖かくしていくように言われました。お姉さん、余分があります。お召しになられますか?」

 傍らに置いていたスーツケースを開いて、祥子が取り出したのはグレーのダウンジャケットだ。大柄な祥子の持ち物だけに、孝子はジャンパーの上から重ねて着ることができた。

「ありがとう。かなり変わった。しばらく借りる」

「どうぞ。お使いください。……お姉さん。私、フェリーに乗るの初めてです。今日まで、実は、かなり浮き浮きしてました」

「うん。私も。快適だったら、今後は船旅を最優先にするつもり」

「すてきですね。私は、舞浜に戻ったら、もう、こういう機会もないでしょうし。うらやましいな」

「旅行、すればいいじゃない。車で行くのもいいかもね。この前、会ったでしょう。あの後、私、舞姫の打ち合わせとかで、一回、舞浜に帰ったんだけど、車だよ」

「え!? どれくらいかかりました?」

「だいたい、丸一日。夜のサービスエリアで車中泊とか、ちょっとしたキャンプ気分だった」

「面白そうですね。免許、取ろうかな」

「持ってなかったんだ。マニュアルだと考課が上がるよ」

「舞姫って、そうなんですか?」

「いや。私からのだよ。舞姫では、なんのメリットもない」

「すごく大事ですね。わかりました。私、マニュアルで取ります。お姉さん。マニュアルについて教えていただけますか?」

 船旅の楽しみに、マニュアルトークも加わるわけだ。祥子が車の購入まで至るなら、そちらの面倒も見てやらねばなるまい。いっそオープンカーでも買わせるか。面白くなってきた。わずか一日足らずで終わってしまうのが惜しいようである。

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