第四四〇話 乱れ髪(三)
舞姫館を出て、すぐ、だった。尋道がつと体を寄せてきた。
「静さん」
「はい」
「伊澤さんが、重工を辞めて舞姫に入りたい、とおっしゃっているそうです」
「……え!?」
立ち止まっていた。伊澤まどかが、舞姫に? 寝耳に水の話だ。聞いていない。
「私、知らないです」
「静さんがご存じでない、ということは、ご自分で決められたんですかね」
「サチと申し合わせたのかも」
尋道は首をかしげた。
「あり得ません。自分のために、床に手まで付いてくれた相手を、舞姫のような零細チームに誘うなんて。高遠さんは、そんな恩知らずではない、と思いますよ」
「でも、私たち、ずっと一緒にやってきたから」
「僕は、違う、と思いますが、正解の出ない問答をしても仕方ありません。中村さんがお戻りになれば、全てはっきりします」
正論であった。
「中村さんはまどかのところに行ったんですか?」
「いえ。もちろん、伊澤さんとも面談はなさるでしょうが、今回は木村さんです。伊澤さんは既に内定を承諾されていますので、普通に考えれば、少しく厄介な話になります」
「それって」
「まあ、大丈夫、とは思いますが。最終的には、桜田大OB同士の手打ちで、しゃんしゃんとなるはずです」
中村と、アストロノーツの部長、木村忠則は、共に桜田大学男子バスケットボール部のOBだ。年齢は、中村のほうが一〇歳若く、同じ時期に部の在籍者であったことはなかった。
「あの、中村さんは、まどかをどうする、っておっしゃってました?」
「受け入れますよ。神宮寺さんの了解も得ています」
歓喜、と同時に、疑問も湧いてきた。尋道は中村に、何も聞いていない、のではなかったのか。
「静さん。よく思い出してください。僕は一言も、聞いていない、とは言ってませんよ」
事態の進行は、まず、ロッカールームで仮眠を取っていた尋道の元に、中村がやってきて、孝子への連絡を要請された。電話をかけると、運よく孝子はつかまり、まどか受け入れは認められた。許諾を得た中村はロッカールームを出ていった。再度、尋道は仮眠に入った、とこのようになっていた。
「聞いている、と言った日には騒ぎになって、静さんに事情をお伝えできない、と思いましてね。第一に知るべきは、絶対に静さんですので」
「ありがとうございます」
それに、トップ同士の談合を、外に漏らすわけにもいかなかった、と結んで、尋道は話題を転じた。
「しかし、一気に増えましたね」
舞姫の人数についてだ。
「静さん、市井さん、北崎さん、ミス・クラウス、アート、栗栖さん、後藤田さん、諏訪さん、青山さん、竹内さん、安住さん、黒瀬さん、香取さんときて高遠さんに伊澤さん。一五人ですよ」
「よくすらすら出てきますね。私、まだ、全員の名前、覚えられてないのに」
「事務方なので。事務方といえば、お二人の配属はどうしましょうかね」
「ロケッツさんじゃないんです?」
協賛企業として、舞姫の選手たちの雇用を引き受けてくれている男子プロバスケットボールチームの名を静は出した。
「ロケッツさんでもいいんですが、イレギュラーな話なので、ロケッツさんに配慮して舞姫で引き受けるのも、一つの手ですね」
「舞姫に?」
現状の舞姫は、舞浜ロケッツと舞浜大学女子バスケットボール部の支援を得て、運営を行っている。自前のスタッフが不足しているためだ。中村憲彦、井幡由佳里、雪吹彰の三人しかいない。
「専従のスタッフを、もう少し増やしてもいい、と思うんですよ。舞姫本体への所属で、静さんの後輩たるお二人に、一定の重みを持たせることにもなります。もちろん、お二人の希望が第一なのは、言うまでもありませんが。伊澤さんの話がまとまったら、お二人に内意を尋ねてみていただけませんか?」
「はい! やります!」
「さて。話は、以上です。一応、僕は隣に行きます。静さんはそのままお帰りになってください」
尋道は静の車を示した。ちょっと待った、である。尋道におごる約束を果たしていない。
「お腹、空いてません」
静は悟った。直感の正体は、これだったのだ。
「郷本さんが、食事をおごって、なんて、ちょっとおかしいな、って思ってたんですよ。そうだ。この話をするために、うそをついたんですね。さっきの話といい、悪い人だなー」
「褒められた、と思っておきますよ。では、いったん、お別れです」
そう言うと尋道は歩きだした。すたすたと見る間に行ってしまう。全く、ひょうひょうとした人だ。静は車に戻った。そのまま帰ったりはしない。追い掛けて、隣のサービスステーションに向かう。尋道に、何かおごらないではいられない気分になっていた。多分、嫌な顔をされるだろうが。




