第四三九話 乱れ髪(二)
舞姫館の開館から、まだ日も浅く、館内での程よい過ごし方をつかめていない静は、試行錯誤を重ねていた。舞姫館への入りを朝一に早め、午前中に自主トレーニング、午後は全体練習の始まる時間まで休憩するのが自然、とはわかっていた。この案の障害となるのは舞姫館の共同風呂だ。絶対に、使うのは、嫌だった。午後一に舞姫館入りし、自主トレーニング、全体練習、と連続でこなす流れを試してみたが、駄目だった。体力が持たない。さして距離があるわけでもなし。休憩は、自宅に帰って取るのが妥当、だろう。
「それ、だな」
相談を持ち掛けた麻弥はうなずいている。
「お風呂、広くて気持ちいいのに」
一方、懐疑的な見解はみさとだった。舞姫館寮棟のエントランスホールに、カラーズと舞姫の合同オフィスはある。七〇平米あまりの空間には、ワークデスクの組み合わせでこしらえられた二つの島が存在し、玄関寄りから、カラーズ、舞姫、それぞれの領域と定められていた。このうち、静以下三人が額を集めていたのはカラーズ島だ。自主トレーニングを終えての帰りしなである。
「人と一緒に風呂入るなんて、冗談じゃないぞ」
「気にするなよ、そんなの」
「それは、斎藤さんぐらい顔もスタイルもよかったら、気にならないかもしれませんけど」
「君たちだって、いい顔してるじゃないかね。スタイルは、まあ、皆まで言うまい」
「皆まで言うまい、じゃねえ。そんな、まずい見てくれはしてないよ。なあ」
「麻弥ちは、ね。私なんか、鍛えてるせいで、お姉ちゃんや那美と並ぶと倍ぐらいあるみたいに見えて、引くよ。あーあ。もっと設計のときに意見を言っておけばよかった」
「残念。その願いは、多分、かなわなかったな」
水回りについては、際限なく汚す者が出てくる可能性があるので、個室への設置はないものとする。この施工主の意向を明かしたのはみさとだった。
「私もできれば個室に欲しかったんだよ。でも、美幸さまに断言されちゃってね」
「そうだったんですか」
ならば、仕方ない。話も一段落した感があった。ぼちぼち帰るとしよう。
「はっ!?」
と、いきなりの大声だ。舞姫島の中村だった。スマートフォンを手にしている。すわ一大事か、とオフィスの隣にある食堂を飛び出してくる者も多数いた。
「……はあ。はあ。それで」
初手の驚愕が去ったのだろう。中村は電話の相手と低い声でやり合っている。
「先生!」
通話が終わった。マネージャーの井幡由佳里が中村に肉薄した。
「ちょっと、出てくる」
「どちらへ?」
「重工だ」
言いながら、中村は歩きだしている。向かったのは、エントランスホールと直結している男性用のロッカールームだ。中村は入って、五分ほどで出てきた。
「雪吹」
アシスタントコーチの雪吹彰が指名された。
「はい」
「そんなに遅くはならないとは思うが、もし、四時までに帰ってこなかったら、練習の指揮を頼む」
「わかりました」
うなずくや否や、中村は小走りに出ていってしまった。明らかに何事かが出来しているのは間違いないのだが、一切の説明はなく、残された人たちは、ただ、ざわめくのみであった。
「あ! 郷さん!」
みさとが叫んだ。その意味は、静にもすぐにわかった。ロッカールームには昼休憩中の尋道がいる。彼が、何か聞いているのではないか、とみさとは考えたに違いなかった。ロッカールームの扉に取り付いたみさとは猛烈なノックだ。
「なんですか。騒々しい」
ところが、である。出てきた尋道は明らかに寝起きだった。目をしばたたかせて、一同を見回している。
「あれ。寝てた……?」
「寝てましたよ。で、なんですか」
「うん。中村さんが、重工に用がある、って出ていったんだけど、何か聞いてないかな、と思って」
「中村さんは何も?」
「雪吹君に、四時までに帰らなかったら、練習を任せる、ってだけ」
「ちゃんと指示が出てるじゃないですか」
「いや、でも、明らかに驚いてらしたし。何か、あったのかな、って」
「あったんでしょうね。戻られたら、伺ってみては?」
「そう、だね。そうする」
みさとがすごすご引き下がったのを機に、エントランスホールに集っていた人たちは散っていった。静も帰途に就くべく玄関に向かう。
「静さん。結局、いったん、戻られることにしたんですか?」
尋道の声に静は振り返った。彼にも館内での時間の使い方を語っていた静だった。
「はい」
「お見送りしましょう。ついでに隣に買い出しに行くとします。キャンディーバーだけでは少なかった」
舞姫館の所在する敷地の隣にはサービスステーションがあるのだ。
「静さん。おごってください」
小食の人と承知している相手の珍しい要求に、静は意外の面持ちとなった。
「おごられてくださるんですか? だったら、喜んでおごりますけど」
「ありがとうございます。言ってみるものですね。後悔しますよ」
サービスステーションの喫茶コーナーあたりで、尋道氏ごときにたらふく食べられても、たかが知れている。軽口は、らしくないような、と直感が働いたのは、結果として正しかった。尋道氏、静に内密の話があったのである。




