第四三八話 乱れ髪(一)
三月一日。神奈川舞姫の拠点となる舞姫館が開館の日を迎えた。福岡県に滞在中の神宮寺孝子、秋口の合流となるアメリカ人の二人、正式な入団に至っていない高遠祥子以外の関係者が勢ぞろいし、ささやかな開館式が挙行された。チームの正式な発足は、また後日となるが、舞姫の実質的な活動の始まりだった。
早速、中村憲彦ヘッドコーチの指揮の下、練習が始まった。開始時間は午後四時だ。クラブチーム方式の運営体制を採る舞姫の選手たちは、一部を除き、バスケットボール選手の顔と、協賛企業に勤務する会社員の顔を持つことになる。遅い始動は会社員側への配慮であった。
始まった、といえば舞姫最大の特色ともいえる歌舞のレッスンも、だ。キャプテンの市井美鈴が選手たちを取りまとめ、練習後のひとときを充てる。皆、それなりに予習をやってきたとみえ、初回にしては見られるものが展開されたのだが、
「なんか、しゃきっとしなかったな」
美鈴は不満げだった。舞姫館の寮棟三階、3I号室での一声だ。3I号室は、長らく居候していた「新家」を出て、舞姫館に移り住んだ美鈴の部屋になる。
「そうですか? うまくできていたと思いますけど」
引っ張り込まれた静は追従でかわそうとした。自宅通いの身には、ありがたくない誘いであった。舞姫館は共同風呂なので汗を流せていない。たとえ同性でも人に肌をさらすのは抵抗を感じる静なのだ。ついでに言えば食事も自宅に戻らないとありつけない。早く解放してほしかった。
「ティーチャーがよくない」
しょせん聞きかじりは聞きかじりでしかなかった。専門家の不在を美鈴は嘆いている。歌舞を含めた舞台演出の主たる担当者である剣崎龍雅は、「ワールド・レコード・アワード」受賞の余波に、いまだ捕らわれ、身動きが取れないらしい。舞姫館の開館に先立って行われた竣工式にも、彼は参列しなかった。もう一人の担当者、孝子も福岡に行ったきり、音信不通が続いている。
「スーちゃんや。たーちゃんに連絡して、戻ってこい、って言ってもいいか?」
「言うのは、ご自由に、ですけど。お姉ちゃんの場合、まず、電話に出るか、どうか、って大問題があるので」
「それよ。たー坊め」
「美鈴さん」
「うん?」
「そろそろ晩ご飯に行かないと。片付かなくて、食堂の方に迷惑ですよ」
これで、諦めて。諦めて、と内心で連呼する静だった。
「あ。そうか。行かないとだ」
「私もお腹空いたので帰ります」
そそくさと静は3I号室を後にした。一階に降り、寮棟の玄関に至る途中にある食堂の前を通ると、ぬれ髪のチームメートたちが食事を取っていた。静と同じく寮外生の春菜の姿はなかった。既に帰宅したようだ。
「お疲れさまー。帰りまーす」
あいさつを交わすうち、知らず忘却のかなたに追いやっていた美鈴の苦悩を静が思いだしたのは、就寝間際であった。結局、孝子に電話はしたのだろうか。つながったのだろうか。……つながらなかっただろう。静も義姉が、いつ舞浜に戻ってくるのか、知りたい思いはある。出てくれないとは思うが、一度だけ、電話をかけてみるとする。
ところが、だ。意外にも孝子は出た。
「何」
「あ。つながった。珍しい」
「運がよかったね。で、何? ミス姉が狂ったようにかけてきてたけど、何かあったの?」
「気付いてたなら出てあげてよ」
「いや。気付いてはいなかった。履歴。で?」
説明に対する反応は、なんともふざけたものだった。
「最愛の妹よ」
「……なんでしょうか、麗しのお姉さま」
「聞かなかったことにしたいんだけど。買収されて」
「ええ……」
受話口から乾いた笑いが聞こえてきた。
「冗談だよ。ただ、私は一対一なら、なんとか教えられるけど、多人数はできそうにないな。剣崎おじさんに連絡してみる。なんとかしろ、って」
「すごく忙しいみたいだよ」
「なんで」
「なんで、って。賞を取ったじゃない」
「ああ」
「お姉ちゃんもね。トロフィー、お母さんに見せてあげた?」
「うん。で、よくよく考えたら、持ってても使い道ないな、と思って。カロートの中に突っ込んだ」
カロートとは何か、と問い、骨壺を入れる場所だ、と返されて、静は噴き出した。
「何やってるの! 私、まだ、見せてもらってないよ!」
「アートも同じもの持ってるよ。レザネフォルに行ったときに見せてもらえばいい」
「お姉ちゃんのが見たいの!」
「私のものを私がどうしようと私の勝手。寝ろ」
言うなり、切られた。なんという信じ難いことをする女なのだ。スマートフォンを持っていた右手が、力なくベッドに落ちた。疲労困憊に似た感覚だった。そのままの姿勢で、静は気を失うように眠りに落ちた。




