第四三〇話 アフタートーン(一三)
地図アプリによって、高鷲重工業株式会社門津造船所は、門津市の北東部、周防灘に突出した半島の先端部分を占めている、と判明した。その広大さたるや、さながら、重工岬、といったありさまだ。ついでに経路を調べると、所要時間は、高速道路を使えば一時間、一般道なら二時間、公共交通機関を乗り継いだ場合でも二時間、と出た。公式ではないにせよ、企業を訪問するのだ。車で押し掛けるのは控えるべきだろう。電車とバスで、えっちらおっちら行くしかない。
翌朝、孝子は時間に余裕を持って、午前九時に家を出た。身に着けているパンツスーツは、田村家から拝借した倫世のお古である。普通、特急と在来線を乗り継ぎ、門津港駅に到着した時点で午前一〇時四五分は、地図アプリの予測どおりとなっている。高鷲重工門津造船所前までは、バスで一五分ほどの道のりだ。直ちに動いては現地で時間を持て余す。駅前のコーヒーショップで時間をつぶして、午前一一時四五分着となるように調整し、出発した。
はて、と孝子は目を細くした。バスの車窓から見えたのだ。門津造船所の正門付近に祥子の姿があった。これはいい。すぐそばにスーツの男性と作業服の女性がいるのだ。別口、と思われないのは、三人が寄り添い、会話をしていることで判断できる。
果たして、孝子がバスを降りると、三人がそろって駆けてくる。何事か、であった。
「神宮寺さま。お待ち申し上げておりました」
内心で孝子はうなっていた。神宮寺さま、ときたか。
「うん。高遠さん。まずは、紹介してね」
「はい」
孝子、先方の男性、先方の女性、という順番は、いわゆるマナーにのっとっている。一年弱で、祥子もそれなりに研さんを積んだようだ。
「高遠さん。お二方にご同席を依頼したのは、どういう理由で?」
あいさつを終えた孝子は、門津造船所の総務部長氏と管理部品質管理課の主任にして門津同好会会長氏が、この場にいる理由を祥子に問うた。
「え……」
言いよどんだ祥子を見て思い付いた。
「もしかして、黒須さんの名前を出した?」
孝子を重工の巨人の縁故と、事前に告げていたのなら、この待遇も理解できる。
「はい。すみません。私、この辺りのことを何も知らなくて。応接室の使用許可を得るときに、つい」
「やっぱり。そうでなくちゃ、私なんかに、こんな大層なお出迎えは、おかしいもんね」
「いえ。それは」
総務部長氏と門津同好会会長氏はしゃちほこ張っている。
この後、孝子は正門を入ってすぐに立つ管理棟内の応接室へ通された。律儀に付き従ってきた総務部長氏と門津同好会会長氏は、ここで下がっていった。接待が完了するのを待って、談合を開始する。
と、その前に、
「おうおう。豪勢だね」
目の前のテーブルに置かれた、豪勢なお茶請けにあきれて孝子はつぶやいた。特産のイチゴをふんだんに使った特大のロールケーキだ。
「高遠さん。私を、黒須さんの愛人、とでも言ったの?」
「まさか。黒須さんを動かして、『中村塾』の全面支援を実現させたほどの超大物、としか」
「誰が、超大物よ。適当なことを言って。でも、せっかくだし、いただくよ。福岡のイチゴは最高だからね」
「はい」
「食べながらで失礼。高遠さん」
「はい」
「実は、細かい打ち合わせをしてなくてね。郷本君に何を言われた?」
祥子が居住まいを正した。
「はい。あの、先輩と伊澤が郷本さんに」
長い絶句となった。やがて、祥子の両目からは見る見る熱いものが吹きこぼれてきた。二人して床に手を付いての請願と聞き、さすがに魂が揺さぶられたとみえる。
しゃくり上げる祥子を眺めながら、もりもりロールケーキを食べる孝子は、淡々と見極めに入っている。これだけ泣けるのなら、見込みはあるように思えた。拾ってやると決めた。残るは待遇となる。
「で、舞姫に入るんだったら、舞浜に戻せる、って言われた?」
しゃくり上げる合間に、祥子はぶんぶん首を縦に振る。
「舞姫だけど、はっきり言って、待遇は重工と雲泥だよ。後の人生を考えたら、たとえアストロノーツに戻れなくても、重工でのお勤めを続けるのは、あり、だと思うけど。それでも舞姫に来る?」
すっくと祥子は立ち上がった。ソファに座る孝子の横に寄り、床に膝を、次いで、手を突けた。
「神宮寺さま。どうか私を舞姫に入れてください。先輩と伊澤の厚情に、どうしても応えたいのです。慎んでお願いを申し上げます」
そうして深々と下げられた後頭部に、孝子は軽くげんこつを見舞った。
「余計なことはしなくていい。はい。立つ。立って座る」
言い放って応接セットの対面を孝子は邪険に示す。
「高遠さんの意志はわかった。次。どういう手順で進めたらいいのかな。高遠さんは、今でもアストロノーツに籍があるの?」
「いえ。日本リーグの規約で重複登録が禁止されていますので、私の籍は門津同好会にあります」
「じゃあ、こっちだけで進めようと思えば、できなくもないんだ」
「どうでしょう。私は本社からの預かりのような形で門津に来ましたので、ただ、辞める、と言っても認められないと思います」
故に、直属の上司である総務部長を通じ、木村に退社と移籍の意志を伝える必要があろう、と祥子は語った。
「さっきも思ったんだけど、だいぶ、しっかりしたね」
「そう、でしょうか。自分ではよくわかりません」
「したよ。……よし。おいしかった」
ロールケーキの完食と同時に、話は終わった。間違いなく祥子を舞姫で引き受ける旨を告げ、孝子は門津造船所を後にした。祥子以下三人による丁重な見送りと土産の大袋を受け取っての、堂々たる辞去であった。




