第四二九話 アフタートーン(一二)
福岡での潜伏を始めて一〇日が過ぎた。生まれ故郷の空の下で孝子は、完全なる自分本位の生活を送る愉悦に浸り切っていた。朝夕の食事は、田村家に転がり込んで、ごちそうになる。それ以外の時間は、レンタカーを駆って思い出の場所を巡るか、家にこもって楽曲の制作に没頭するか、である。懐古にふけるうちに走った距離は一〇〇〇キロを超えた。発注の際に、マニュアルならなんでもいい、と言ったら当たった軽バンが、思いの外に走るのも過走行を助長した。楽曲の制作のほうも順調だった。取っ掛かりをつかめないまま放置気味となっていた舞姫用の一曲を、一気に完成までこぎ着けられたのには、われながら驚くしかない。次に着想が湧いた楽曲も進行している。一意専心できる環境のおかげに違いなかった。
このように自由自在の生を満喫中の孝子であったから、持ち前となるスマートフォンへの非依存も、推して知るべし、の度合いだ。全く見向きしない。よって、郷本尋道が、連絡を待っている、と知ったのも倫世の母がメッセンジャーを務めてくれたため、であった。
「たむりんに聞いたの?」
電話をかけて、真っ先にただしたのは、このことだ。
「ええ。緊急の用事があった場合は、福岡にいるので、と。ご実家の連絡先も合わせて教えていただいてまして」
「なんだ。知ってたんだ」
「郷本氏なら、あいつの邪魔はしないだろう、と。アメリカにお戻りになる日に」
そこまで信を置かれた男が動いた。急を要する、何か、が起こったというわけだ。
何か、は、高遠祥子にまつわる件だった。祥子が終身刑に等しい宣告を木村から受けたところまでを、尋道はまず語ってきた。
「自業自得でしょう」
「そう突き放して考えられない方たちもいらっしゃいましてね」
伊澤まどかが企てた門津行きは、当然のごとく却下された。こっぴどく木村に叱責されたまどかが頼ったのは静だ。仰天した静はまどかを引き連れて、尋道の元にやってきた。そして、なんと、二人して床に手を付いて、尋道の善処を求めた、とか。
「何をやってるの。二人とも」
「美しい友情、ですか。しかし、正直、僕に頼まれても困るんですがね」
「手練れ、って思われてるんだよ」
「手練れ、ねえ」
珍しく、あぐねた様子の声が聞こえてくる。
「何も思い付かない感じ?」
「そういうわけでは。ただ、懸念が、いくつかありましてね」
「聞かせて」
第一に、孝子の意向、という。孝子は祥子を嫌っている、はずだ。それは、祥子が昨年に起こした飲酒事件にまつわる。科せられた自宅謹慎をずるけ、遊興にふけっていた祥子は、その姿を通報され、アストロノーツの首脳のさらなる不興を買った。このとき、あろうことか祥子は、直前にやりとりのあった静を通報者と疑ったのだ。バスケットボールプレーヤーの高遠祥子は、無名の人ではない。通報者は赤の他人の可能性もある。ここを勘考できなかったのは祥子の未熟であった。実際、通報者は男性だったのである。
「あったね。あの酔っぱらいが、ふざけやがって」
「神宮寺さん、激怒してらしたでしょう。あなたの許しがない限り、動けません。カラーズと舞姫は、あなたのものなので」
口ぶりでは、祥子を舞浜に戻すとすれば舞姫に、と尋道は考えているようだ。
「そうするしかない、と思いますよ。アストロノーツの部長さんが明言したんです。覆らないでしょうね」
「そうだね」
「いかがでしょう」
「好きか嫌いか、で言えば、今でも嫌いなんだけど。突っぱねたら、スー公がめそめそするんでしょう?」
「既にしてましたね」
まどかと二人、涙ながらに訴え出てきたわけか。
「いいよ。始終、面を付き合わせる相手でもないし」
「ありがとうございます」
第二に、と尋道が挙げたのは、祥子の意向、であった。
「そもそも高遠さんが羽目を外したのは、あまり裕福でない家庭の育ちだったところに、大目の支度金を得て、すっかり舞い上がってしまったのが原因だそうじゃないですか」
「そう聞いたね」
「舞姫では、逆立ちしたって重工と同水準の待遇は無理です。そんなチームに、高遠さんが来たがるか」
「ああ。お金を選ぶかも、って話ね」
「ええ。そのあたりを見極めていただけませんか?」
「私が?」
「そろそろ帰国のころ合いでもありますし。電撃的な福岡入りなんて、どうですか」
「なんの話をしてるの?」
アメリカプロ野球は、キャンプの時期、という。川相夫妻がキャンプ地に赴く以上、孝子だけシアルスに居座り続けるのもおかしい。対外的には、幼なじみの厄介になって、シアルスに滞在している体の孝子だった。
「キャンプ地はサラマンドなんですよ。シアルスなら、今日も曇ってた、とか言っておけばいいでしょうが、サラマンドは市井さんがご存じなので。現地にいない、とばれる危険性があります」
市井美鈴は、アリゾナ州サラマンド市を本拠に置くサラマンド・ミーティアの選手だ。サラマンドの事情には詳しいだろう。
「よく思い付くね。わかった。門津だっけ。見極めてみようか。セッティングを、お願いしてもいい?」
「お任せください」
尋道はその日のうちに話をまとめてきた。いわく、明日の正午、高鷲重工業株式会社門津造船所に、祥子を訪ねてほしい。ご足労を煩わすが、造船所から離れた経験のないらしい祥子は、全く福岡の土地勘がない様子で、待ち合わせは難しい、と判断した、だそうだ。
造船所を離れたことがないとは、殊勝に勤めている、という意味か。事実ならば、酔っぱらいも、少し変わったのだろうか、とぼんやり思った孝子であった。




