第四二話 五月晴(七)
協議の結果、剣崎の来訪は同じ週の土曜日と決まった。普段の清掃を欠かさないので、どたばたする必要もない。念のため、麻弥と春菜に在宅を依頼して、孝子はその日を迎えた。
朝からの好天気である。梅雨入りの報を聞き、はや一カ月近くたったが、雨らしい雨はない。今年は空梅雨の模様だ。
午前一〇時の予定どおりに、海の見える丘の住まいをトリニティのサービスカーが訪れた。大型のバンの運転席には剣崎の姿が見えた。
「剣崎さん、ようこそおいでくださいました」
「いらっしゃいませ」
孝子と並んで音楽家を迎えた麻弥の声が、気持ち大きい。同じせりふを言った春菜の声は、完全にかき消されている。
「やあ。これは、おそろいで」
車外に降り立った彼は、首に提げていたトリニティのIDカードを示した。
「本日の作業を担当させていただきます、トリニティの剣崎です」
「斯波さんに伺ったんですが、本当にトリニティのスタッフでいらっしゃるんですね」
「うん。TT-70も、何台か見た経験があるんで。安心して」
剣崎がバンの後ろに回った。青いブルゾンの背には「TRINITY SUPPORT AND SERVICE」の文字だ。
「これが話してた展示場のやつ」
荷室にはTT-70が固定用のベルトでがんじがらめとなっていた。
「思い入れのある品、と聞いてるんで、余計なお世話かも知れませんが、一応。これと、お持ちのものを交換してもいいですよ」
「いいえ。今のでないと駄目です」
「わかりました。では、拝見」
孝子は剣崎を屋内へ、次いでLDKへと案内した。麻弥と春菜の協力でLDKは簡易の作業場となっていた。ダイニングテーブルとソファが隅に押しやられて、代わりに中央には孝子の部屋からTT-70が運び出されている。
「おお。これ、まさか、いつもここにあるわけじゃないでしょう? よく動かせましたね」
「三人がかりで、なんとか」
正確には、片側を、孝子と麻弥が全力で、それでもひいひい言いながら持ち上げたものを、もう片側の春菜は一人で、ひょい、という感じではあったが。
「助かりました」
剣崎は自室の畳の上に座る春菜に声を掛けた。誰が主力だったかは一目瞭然とみえる。
修理が始まった。持参の養生シートを床に敷き、剣崎は腰を下ろした。続いて、同じく持参の工具を用いて、TT-70のリアプレートを外しに掛かる。筐体を向かい合う剣崎と少し距離を空け、作業の見える角度で孝子も床に腰を下ろした。しばらくは無音の時間が室内を流れる。
「今日は、わざわざ、ありがとうございます」
「いいですよ。斯波の頼みだ」
言い終わらないうちに剣崎は、くっく、と笑いだしていた。
「あいつ、大切な友人の力に、ぜひ、なりたい、とかほざきましてね。最初は」
「はい」
「すぐにぼろを出しましたが。この間、一緒に来た子。風谷さん、でしたか。あの子に、ご執心だって。神宮寺さんは、あの子と仲よしなんで、できるだけ便宜を、って話ですよ」
「私の前でも、ぼろを出してました。六対四で、私重視、って」
「重視してないじゃないですか」
「そういう人です。私のこと、守備範囲外、って言うような人です」
「口が悪いな。さて、と」
剣崎が立ち上がった。
「基板ですね。外のやつをばらして、持ってきますんで、ちょっと失礼しますよ。時間、かかると思います。お構いなく」
「あ。お飲み物、外にお持ちしましょうか……?」
声は麻弥だ。キッチンで、渾身のアイスコーヒーを淹れている。用意のグラスは一つだ。自分はもちろん、孝子も春菜も、今の彼女の眼中にはない模様であった。
音楽家、剣崎龍雅の名だけは、麻弥も知っていた。しかし、その実像についての知識は孝子と同じく皆無だったようで、いろいろと調査したらしい。以来、麻弥はそわそわしっ放しだ。麻弥が、年上の男性に焦がれる性質である、と孝子は気付いている。好例が神宮寺隆行だ。他には、中学時代の担任を意識していたことがあるのも、孝子はお見通しだった。
「そうだね。麻弥ちゃん、折を見て、お飲み物を届けて差し上げて」
「わかった」
応じるや、麻弥は盆にアイスコーヒーを載せ、剣崎に従って行ってしまった。孝子は、折を見て、と言ったのだが……。まあ、いい。折を見るためには、その場の観察は不可欠、としておこうか。
その後、三時間に及んだ修理の間中、ずっと剣崎にくっついてうろうろしていた麻弥の姿に、失笑せぬよう、孝子は非常な労力を払うこととなったのであった。