第四二八話 アフタートーン(一一)
あと一カ月もすれば、高遠祥子が福岡県門津市で暮らし始めて一年となる。門津市は福岡県第二の都市で、かつては海都として栄えたと聞くが、当時の名残を今も街並みにとどめているのか、祥子は知らない。なぜなら、門津での一年弱を祥子は、高鷲重工業株式会社門津造船所と、県道を挟んで目の前にある社員寮との往復だけで、ほぼ過ごしていたためだった。
昨年、舞浜で起こした飲酒事件の責めにより、祥子は本社勤務の予定から一転して、門津造船所への配属を命じられた。待ち受けていたのは厳格な規律に支配された生活であった。何をするにもお目付役の総務部長氏に許可を得なくてはならない。とにかく、この総務部長氏がおっかないのだ。一七八センチの祥子が見上げるような大男で、恰幅もよく、おまけに角刈りときている。言動もいちいち重苦しい。彼のそばにいると、ここは軍隊か、はたまた自分は囚人なのか、と疑いたくなってくる。そんな日々が続けば、げんなりして、休日に外出を企てる気にもならぬ。職場と寮を往復するだけ、の理由だった。
祥子にとって門津での唯一の癒やしは、高鷲重工門津造船所女子バスケットボール同好会――門津同好会の活動だ。お世辞にも強いチームではなかった。むしろ、弱い。でも、一向に構わない。門外漢の総務部長氏は同好会の活動に干渉してこない。この一点だった。それほどに、祥子は総務部長氏が苦手なのである。
そうだ。おっかない、といえば、総務部長氏など足元にも及ばない男がいた。アストロノーツの部長、木村忠則だ。二カ月に一度、監察のため門津にやってくる。こんなくんだりまで、ご苦労な、と思う。自分を飛ばした張本人に対する祥子の目は冷め切っていた。が、あくまで内心だけの話になる。印象的なのは木村を迎える周囲の、かしこまったさまであった。本社の威光のすさまじさを目の当たりにするたび、めったな振る舞いはできない、と祥子は心持ちを新たにする。同時に、犯した失敗の一大痛恨事ぶりにも思いは至る。大過なく過ごし、早く本社に、舞浜に帰りたかった。
さて、その木村だが、今日の来訪で、とんでもない爆弾発言を言い置いていった。
「だいぶ、磨かれたな。顔つきが、精悍になった」
営倉か、牢獄か、みたいな場所に放り込まれれば、嫌でもそうなる。
「はい。皆さまのご指導、ご鞭撻を賜りまして」
もちろん、言い返せるはずもなく、愛想笑いを浮かべるのみだ。列席の総務部長氏は、日ごろの厳格さをおくびにも出さず、へらへらしながら祥子の品行をたたえている。そんなに言うなら、もう少し放任してほしいものであった。
「高遠」
「はい」
「来年の全日本に出てこい」
褒められたのだ。戻す、と言われるものと期待していたら、何かが違う。出てこい、とは? アストロノーツの一員として出場するのであれば、こういう言い方にはならない。もしかして、門津同好会で来年の全日本選手権に出てこい、と言っているのか……!?
「門津のチームが、あまり強くないことは承知している」
やはり、そうだった。門津同好会は、あまり強くない、チームではない。はっきりと、弱い、チームだ。昨年は全日本選手権への出場どころか、はるか前の段階で敗退している。具体的には、全日本バスケットボール選手権大会への出場権を懸けた九州ブロック大会、への出場権を懸けた県代表決定トーナメント、への出場権を懸けた社会人連盟予選トーナメント、その初戦だ。
「承知している、が、やれ。それぐらい、やってもらわんと戻せない。もう一一カ月になるか。ここでの勤務、生活で学んだ全てを発揮してみろ。俺からの課題だ」
木村の言は、祥子を本社に戻すつもりはない、という通告に等しかった。応接室の白い壁が、瞬時に黒に変じた気がした。
このまま自分は永遠に門津で生きていかねばならないのか。恐慌をきたした祥子が、愚痴の速射を浴びせた相手は、後輩の伊澤まどかだった。自らの飲酒事件で、直接、間接に影響を与えた人たちを、はばかりがある、と敬遠していた祥子が、唯一、つながりを保っていたのは、このまどかである。ミニバスケットボールクラブ以来の付き合いは、一〇余年を数える。馬が合うのだろう。内向と外向、正反対の性向にもかかわらず、気の置けない間柄の二人なのだ。
「木村部長、ちょっと、ひどくないですか! 門津造船所のチームで全日本選手権なんて。どう考えたって無理ですよ!」
スマートフォンから叫声が聞こえてくる。敬愛する先輩の近況に絶えず目を配っているまどかは、当然、門津同好会の実力も把握しているのだった。
「そうだよ……。ひどい」
共鳴して、叫びたかったが、あいにくと寮の狭いワンルームは壁が薄い。入寮時のオリエンテーションで受けた注意を、忠実に守っている祥子だった。
「やだなあ。先輩とまた一緒にやりたくてアストロノーツに決めたのに。最悪」
昨年の祥子と同じく、まどかも高校卒業後の就職先を高鷲重工に定めていた。アストロノーツ寮への入寮も済ませ、チームの一員としての活動も始めている。いずれは、と敬愛する先輩との再会を心待ちにしていたところに、降って湧いたような難事だ。まどかの声が曇るのも無理はない。通話は途切れた。
「先輩」
かなりの時間がたって、まどかの声だ。
「私が、そっちに行ったら、どうです?」
「え……?」
「二人でなら、全日本選手権に出るぐらい、なんとかなるんじゃないですか?」
祥子を追って自分も門津に行き、門津同好会に加わる。二人で門津同好会を全日本選手権出場に導き、大手を振ってアストロノーツに戻ろう、とまどかは言っている。確かに、出場だけならば、祥子とまどかが組めば不可能ではないだろう。
しかし、
「できるわけないじゃん」
祥子は吐き捨てるように返した。
「できますよ。私たちなら」
「そうじゃなくて。アストロノーツが、伊澤を出すわけがないでしょ」
選手としてフェードアウトしかかっている祥子とは違う。伊澤まどかは、アストロノーツが今年、獲得した選手の中でも、飛び抜けた一番星なのだ。公立校である鶴ヶ丘高校を高校三冠に導いてみせた実績がある。決してなまなかではかなわないことだ。
「なんとかします」
「なんともならないよ……!」
「じゃあ、賭けますか。もし私がそっちに行けたら、先輩、おごってください。そっちの名物、調べておいてくださいね。一万円はおごってもらいますよ」
「はいはい。おごるおごる」
言うなり通話を切った。後輩の、あまりに脳天気な提案に、祥子はあきれ果てていた。人ごとだと思って、とんでもないやつもあったものである。
それにしても……。憤慨後悲嘆だ。帰れないのだな、と思えば、自然とうつむいてしまう。涙が一粒、部屋着の膝頭に落ちた。




