第四二六話 アフタートーン(九)
今日もシアルスは当然のように曇っている。目を覚ました孝子は、あてがわれた寝室の窓際に立ち、わずかに開けたカーテンの隙間から、その事実を確認した。とうとう一度も晴れなかったか。感心さえしつつ、そっと二枚の布を閉じ合わせる。
部屋の明かりをつけ、ベッドに腰掛けた。ナイトテーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取って、時間を確認する。午前七時四五分は、だいぶ寝過ごした。午前さまで就寝の遅くなった分が、そのままずれ込んだ形だった。
昨夜、「ワールド・レコード・アワード」の授賞式を終えて以降の流れは、こうだ。午後九時過ぎに会場を出た一行が、アフターパーティーの行われる「Jenny's」に到着したのが午後九時半。そこから、飛行機の時間をにらみつつ、なんとか乾杯まで見届けて、中座したのが午後一〇時。ビラノゼ空港着が午後一〇時二五分。空路シアルスに向かい、エアロ・アメリカフィールドを経て、川相宅に入ったのが翌午前二時、となる。ちなみに今後の話をすれば、この日の正午の便で帰国である。ビジネスジェットの利便性も、旅程後半のかつかつなスケジュールで、ほぼ相殺されてしまった感があった。しょせん、他人の所有物を使用させていただいている分際に便乗した身だ。文句を付ける気はないが、誠に慌ただしい。もうこりごりである。
スマートフォンをナイトテーブルに戻した孝子は、次いで、隣のトロフィーをつかんだ。アフターパーティーでエディから受け渡されたものだ。台座に、SONG OF THE YEAR、SONGWRITER、KYOKO OKAMIYA、と打刻されている。漢字の表記は翻字できない。KYOKO OKAMIYA――岡宮鏡子という芸名に音を拝借した亡母、KYOKO OKAMIYA――岡宮響子がしのばれてくる。
驚くだろうか。褒めてくれるだろうか。そんな芸名を勝手に名乗って、と怒られるだろうか。予想は付かない。話したい、と孝子は思いだしていた。行ったところで、驚かれもしなければ、褒められもしない。まして、怒られるなど、絶対に、ない。それでも、行って、話したかった。奔出した思慕の念には、抑え難い勢いがあった。
トロフィーを抱いてベッドに倒れ込み、じっと横たわっていると、ノックの音がした。
「ごめん! 寝過ごした! 起きてる?」
「……起きてる」
「開けるぞ」
倫世が部屋に入ってきた。報復措置まで検討していた相手との仲は、アフターパーティーで劇的な改善を見ていた。倫世の陳謝に続いた後見人たちの援護が奏功したのだ。
「ケイティー。私が存分に叱っておいたわ。ミッチを許してあげて」
「ケイティー。マムが、存分に、って言ったのよ。ミッチは、多分、三時間ぐらい叱られてる。これ以上、ミッチを叱ったら、かわいそうだよ」
気のいい母子の心遣いをむげにするのも悪い。倫世の耳元に口を寄せて発した、次やったら絶交、の一言で手打ちとした孝子であった。
「お。やっぱり、まだ寝てたか。いや。ごめん。失敗したな。おかみに乗ってほしくて、ビジネスジェットを手配したけど、縛りがきつかったわ。次があっても、もう使わない」
「そうだね」
「ミシェルにも、もっとゆっくりしていったらいいのに、なんてべそをかかれたしね」
「うん」
「そうだ。おかみ。うちのゴリラに曲を書いてよ。打席に立つ時に使う曲。今は適当な洋楽にしてるんだけど、どうせなら、お前の曲がいいじゃん?」
「考えとく」
「……もしかして、体調悪い?」
反応の薄い孝子に不審を抱いたようだ。倫世の手が孝子の背をさする。
「いや」
「寝不足?」
「いや。トロフィーの名前を見てたら、なんだか、染みた」
どさりと倫世が覆いかぶさってきた。
「重い。どけ」
「お前が悪い」
そういえば渡米前に倫世は言っていた。響子ママだけに、世界に「オカミヤキョウコ」の名が響き渡ればいい、とか。トロフィーにKYOKO OKAMIYAの名があったらかっこいい、とか。娘の親友として、幼なじみの娘として、倫世も、なんだかんだ響子の薫陶を受けた口だ。孝子と同等に、染みて、いるのだ。
重なり合ったまま、どれほどが過ぎたころだったか。
「たむりん」
「うん」
「頼みがある」
「何?」
「私、ここが気に入ったんで、しばらく厄介になる、ってことにしておいて」
「いいけど。……こと?」
倫世が起き上がった。孝子も体を起こす。倫世は赤い目をしていた。自分も、おそらくは似たようなものであろう。笑う気にはなれない。
「舞浜の人たちに、いちいち説明したくないの。一秒でも早く福岡に行って、お母さんのお墓に、これをお供えするの」
「わかった。私も行く」
「川相さんは、大丈夫?」
「どうせ、東京で一泊しなくちゃいけないんだし。私も響子ママのお墓にお参りする。そうと決まれば、起きろ。寝坊で時間が押してるぞ。朝は抜き。シャワーを使ってこい」
勇躍して倫世は部屋を飛び出していった。幼なじみの娘に、実の娘が立ち遅れるわけにはいかない。その場に寝間着を脱ぎ捨て、バスルームに駆け込む孝子だった。




