第四二三話 アフタートーン(六)
高台を下りて、突き当たった通りを、シェリルの運転する車は、ずっと西進していく。いくつ目かの交差点を過ぎたところで、ひょいと入れば、ずらりと並んだ車が目に入ってきた。シェリルの夫、ビンスが経営する渡辺原動機のディーラーだ。
店の入り口付近に立っていた白い上下の男性が、右手を掲げて近づいてくる。事前にシェリルが連絡を入れていたので、待ち構えていたとみえる。すらりとした長身が、誠にシェリルと似合いの組み合わせに思えた。ビンスことビンセント・クラウスであった。
「やあ。ケイティー、ミッチ。ビンスだ」
あいさつが済むと、シェリルが二人に声を掛けてきた。ディーラーの隣、オレンジ色の二階建てを指す。側面しか見えなくとも大きな構えとわかる。
「あれが、ホテル?」
「ええ。そうよ」
「チェックインは何時?」
「午後三時ね」
「じゃあ、時間まで車を見せてもらって、その後は歩きで行こうか」
「ケイティーは車が好きなのかい?」
車好きが高じてディーラー経営を始めた、と妻に評された男が言った。
「車自体は、そんなに。車好きの友達がいるから、土産話にしようと思って」
「ほう。友達は、何に乗ってるんだい?」
「自分の車は持ってないよ。ルームメートなの。私の車を使ってる。ワタナベのウェスタ。マニュアルのね。私、マニュアルが好きなの」
「おお! 僕もマニュアルが好きなんだ。ケイティー。おいでよ」
「ビンス。後にして」
シェリルに叱声を受けて、ビンスは、ちょっとだけ、を繰り返しながら、孝子に向けて手招きをする。付いていくと、店舗裏の駐車場にとめられていた黒い車が示された。ご多分に漏れず、車高は低い。
「ビンスコレクションの一台?」
「そうさ。中でも一番のお気に入りだ。ワタナベのマニュアルは最高なんだよ」
「うん。わかるよ。私も、例の友達に勧められて、ワタナベにしたの。ビンス。左ハンドルのマニュアルって、どんな感じ?」
「乗ってみるかい?」
「残念。国外運転免許証を取ってないの。ビンスがマニュアルを持ってる、って知ってたら、取ってきたのに」
「じゃあ、ここ、回って見るかい? 外に出なければ問題ないよ」
ここ、は店舗裏の駐車場だ。ちょっとした公園ぐらいの広さはある。
「やる」
「ケイティーにビンスを紹介したのは失敗だったかしら」
あきれ顔のシェリルに倫世も呼応する。
「絶対に失敗だったよ。あいつ、レンタカーも、わざわざマニュアルを指定するぐらいだもん。止まらないよ」
倫世の予言は当たった。右ハンドルでは左手で扱うシフトレバーを、右手で扱う新鮮さにかまけて、孝子は運転をやめない。飽くことなく駐車場をぐるぐる回り続け、ついに倫世に止められた。
「どけ。ひくぞ」
進路に仁王立ちする倫世を孝子は怒鳴った
「いい加減にしろ。そろそろビンスが娘さんを迎えに行きたい、って言ってるぞ。降りろ。返せ」
時計を確認すると午後二時を大きく回っていた。レザネフォル市の学校が、どのようなタイムテーブルで動いているのかはわからないが、下校時間のころ合いに思える。観念するしかない。
「ビンス。ありがとう。楽しかったよ」
「驚いたよ。まさか、あそこまで楽しんでもらえるとは思わなかった。次は免許を取っておいで」
「ビンス。駄目。そんな約束したら、本当に来るよ。こいつ」
孝子、大笑である。
「ケイティー。君のチームを僕の会社にスポンサーさせてくれないか」
出発の間際にビンスが言った。孝子は隣のシェリルを見上げた。
「シェリルの差し金だね。マイヒメの金庫を心配してくれたの?」
「ええ。どう考えても高過ぎるもの」
「わが社の財務担当者が、出せる、と言ったの。それに疑義を抱くような仕業は、正直、気に入らないな」
途端の重低音だ。噴出した一人と、狼狽する二人を尻目に、孝子は続けた。
「というわけで、断る。ビンス、行ってらっしゃい。シェリル。そろそろホテルに行きたいな。案内して」
言い終わるや否や孝子は歩きだした。背後では、とうとう倫世が笑いだしたようだが、知ったことではなかった。全く、この女の短気は、相手を選ばず発揮されるのであった。




