第四二一話 アフタートーン(四)
現地時間の九日午前、孝子と倫世は空路レザネフォルに入った。市域の北部、ビラノゼ地区に所在するビラノゼ空港に降り立つ。
「いいね、レザネフォル。どこかの薄暗い街と違って、爽やか」
タラップを降り切ったところで足を止めた孝子はつぶやいた。
「全くだ」
背後で倫世の声がした。とにかく「雨の街」と称されるシアルスの二月は陰鬱としていた。滞在した三日間は曇り時々雨に終始し、晴れ間すら拝めなかったほどだ。おまけに寒さも日本並みときて、たまったものではない。比べて、レザネフォルの空のまぶしいこと。吹く風の暖かいこと。ぼやきたくもなる。
クルーたちに見送られ、二人はターミナルビルに向かった。大きな荷物はシアルスの川相宅に置いてきたので孝子は身軽である。同じく軽装の倫世と並んで突進していく。ビラノゼ空港はプライベートの利用が主の、こぢんまりとした造りだ。ものの数十秒で二人はターミナルビルに到着した。
降機の手続きを終えてロビーに出るや、待ち受けていたとみえる。長身をグレーのスーツに包んで、さっそうとした歩調のシェリル・クラウスがやってきた。
「ケイティーとミッチね?」
「ハーイ。初めまして、シェリル。タカコ“ケイティー”ジングウジとミチヨ“ミッチ”カワイよ」
「ようこそ。レザネフォルへ」
孝子と倫世はシェリルに導かれてターミナルビルの外に出た。目の前にとめられていた赤い車が示された。
「私の車よ。乗って」
後部座席に収まった二人に、運転席のシェリルが顔を向けてきた。
「ホテルを取ってあるんだけど、チェックインまで、だいぶあるの。私の家に招待するから、時間までくつろいでちょうだいね」
空港を離れると、車は南側に迫る丘に向かって走っていく。
「前に、見えるでしょう? あの丘の向こう側にアートの家があるのよ。案内はしなくてよかったのよね?」
「うん。ケイティーはシェリルに会いに来たの。あっちは別の機会でいいよ」
「わかった」
シェリルの家は丘から派生した高台の上にあった。周辺の邸宅は、途中、走り抜けてきた低地と比べて、明らかに間口の広さが違った。富裕層の住まう地域なのだろう。
「シェリル。家族、大勢なの?」
車を降りた孝子が声を上げたのは、家屋の前に無造作に並べられた車の数々のためだ。一、二、三台、あった。加えて、シェリルの車と、家屋に連結したガレージにも車が入っているとすれば、一家で五、六台を所有している計算になる。
「いいえ。夫と娘と三人よ。その辺に置いてあるのとガレージに入っているのは、全て、ビンス、私の夫の車よ。彼は車のディーラーを経営していて、ディーラーごとに車を使い分けているの。ナジコに乗っている人間に、ヴァッケンローダーは最高だよ、なんてセールスされても信じられないだろう、って言ってるけど。単に、いろいろな車に乗りたいだけよ。元々、車が好きでディーラーを始めた人だしね」
あきれ顔で言うあたり、シェリルは夫の車道楽に興味はないようだった。
「入って」
屋内に入ると、いきなりリビングがあるのは、いかにもアメリカらしい。窓の外に広がっている庭の広大さも、また、アメリカらしい。
「何か飲む?」
二人にソファを勧めながらシェリルが言った。
「常温のミネラルウオーター、あるかな」
孝子が渡米した目的は二つあった。シェリルと面会の暁に、一つ、『Voyage』を披露する。一つ、舞姫の説明を行う。常温のミネラルウオーターは、このうちの前者に備えた注文だ。喉を潤すのである。
「大丈夫よ」
「シェリル。私も同じで」
リビングに隣接したダイニングキッチンに入ったシェリルは、やがて、グラスを二つ、盆に載せて戻ってきた。
「ありがとう」
受け取って、孝子は一口、二口と含んだ。準備は万端となった。
「さあ。始めましょう」
「ええ。その前に、ケイティー、ミッチ。チームのことを伝えに、はるばる来てくれて、本当にありがとう。直接、話を聞けるのは、とても助かるわ。じゃあ、お願いね」
「ああ。待って、シェリル。チームの話をする前に歌うよ」
「え?」
『リクエストしてくれたでしょう。『Voyage』が聴きたい、って」
「お。噂の、シェリルにささげる歌だな。私も聴いていいの?」
「一〇〇万ドルね」
「値段分の価値があったら払ってやる」
「言ったな。シェリル。アカペラでいいかな」
「ええ。ケイティー。私の最後の航海が成就するよう祈念して」
二人の拍手を受けて、孝子はすっくと立ち上がった。
『Voyage』
長い時間がたった
畏れを知らぬ若者が 分別のつく年齢になるくらいの
航海を終えるべきときなのだ
「彼女」も同意するはずだ
船体は朽ち 帆だってぼろぼろになった
もはや長い旅には耐えられない
グラスの用意をしてくれ
最高級のやつを開けよう
これまでの海路に乾杯だ
偉大な航海は終わった
ひどい見当違いだ
老いさらばえたのはあなただけ
「彼女」はどんな大波にも負けない
あなたさえ旅立つ勇気を持てば
世界にはまだ多くの大洋がある
そのうちいくつを巡った?
アルバムを繰るには早過ぎる
行こう 「彼女」が出航の合図を待っている
グラスの用意をしてくれ
最高級のやつを開けよう
これからの海路に乾杯しよう
偉大な航海は終わらない




