第四二〇話 アフタートーン(三)
孝子と倫世の出発に際して一悶着があった、と尋道が知ったのは、二人の離日後、二日がたってからだ。この日、尋道は、電動アシスト自転車の試乗がてらにlaunch padの舞姫館を訪れた。舞姫館が開館した暁には自転車通勤を、と考えている彼だった。その予行演習なのである。慎重を期して、レンタルした電動アシスト自転車を用いているのが、この男らしい。
launch pad前に乗り付けた尋道は、ジャンパーのポケットをまさぐり、スマートフォンを取り出した。セットしておいた地図アプリの機能によれば、約五キロを約二〇分で走破した、とある。こんなものといえた。
正門脇に立つ警備員に断って敷地内に入った。建設中のロケッツ館を横目に舞姫館へと走る。玄関前の駐車スペースには車が横列で並んでいた。ざっと、六、七台だ。勢ぞろいしているとみえる。
入館してすぐのオフィスにはみさとがいた。奥を見据えて、何やら思案中の様子である。他の姿は見えない。別の場所で作業中なのだろう。
「お疲れさまです。何をしておいでです?」
「おう。びっくりした。いや、ね。ここ、入ってすぐにオフィスでしょう。ロビーみたいなスペースが、あったほうがいいんじゃないかと思って。考えてた」
「そうですね。カラーズには必要ありませんが、外との付き合いがある舞姫のことを考えると、あってもいいでしょう。井幡さんは?」
「バスケ組は、みんな、あっち。トレーニング器具の見積もり中」
みさとは体育館棟の方向を指さした。
「そうですか。舞姫さんの意向を第一に、検討してみてはいかがですか」
「そうするわ。時に、郷さんは、どうしましたん?」
「自転車の試走です」
「どうだった?」
「余裕でした。余裕過ぎて、電動アシスト自転車が必要なのか、別の迷いが生じましたよ」
「ああ。鶴ヶ丘からずっと平坦だもんね。そうだ。私、電動アシスト自転車に乗ったことない。乗ってみてもいい?」
「どうぞ」
二人は外に出た。
「舞姫カラー!」
尋道が乗ってきた電動アシスト自転車を見たみさとが叫んだ。言われてみれば、フレームカラーのマリンブルーは、舞姫のチームカラーと共通している。
「たまたまです。これ、レンタルなので」
「え。買ったんじゃないの?」
「安くても一〇万近くするのに、ぽんと買えませんよ」
「確かに。じゃあ、失礼して」
サドルにまたがり、こぎ出した瞬間に、悲鳴が上がった。
「うわー! 気持ち悪い、これ。こいだつもりの倍ぐらい前に進むー!」
「ええ。僕も感じました」
とは言ったものの、みさとの耳には、おそらく届いていない。あっという間に正門近くまで突っ走っていってしまった。
「いいね。面白い。郷さん、今日は手ぶらみたいだけど、荷物とか積んだりもするだろうし、これでいいんじゃない?」
戻ってきたみさとの推奨だ。
「そうですか。では、色はこれで注文しましょうかね」
「うん。そうそう。六日だけど、郷さん、来てなかったよね」
「神宮寺さんですか?」
「そう。本当に、来なくてよかったよ」
自転車に乗ったまま、みさとは続けた。苦々しげな表情は、一体、何があったのか。
「あの子と川相倫世さん、ぎりぎりに来てさ。寝過ごした、って。午後四時だよ? ビジネスジェットの中を見せてもらう、って約束してて、みんなで行ったのに、さっさと出発しちゃって。もう、みんな、あきれ返ったよ。最悪さ」
文字どおり、語り明かしたわけか。さぞ盛り上がったに違いない。その結果の遅刻なのだ。
「残念でした。でも、仕方なかったかもしれませんね」
「ええ……?」
「岡宮孝子の昔を知る相手と、心ゆくまで語り合ったんでしょう。うっかり夜更かしして、うっかり寝過ごしたのも、わかる気がします」
「午後四時は、寝過ごしたってレベルじゃないでしょうよ」
「九つで天涯孤独となって、古里を離れることになった人の心根を思えば、僕なら腹は立ちませんが」
みさとがむせた。尋道はつと寄って、自転車のハンドルに手を掛けた。
「帰りますので、いいですか」
「あ。はい」
孝子と倫世の行動は論外だ。約束は、交わした以上、守らなければならない。が、そのような些事で、二人と、みさと以外に誰が押し掛けたのかは知らぬが、それらの人たちとの間がぎくしゃくするのもばかな話だ。よって尋道はみさとを言いくるめる方向に動いた。彼女に憐憫の情を催させ、孝子たちをまかり通らせる作戦だった。
今や、みさとの渋面はほどけて、持ち前の柔らかな造作が憂色をいっぱいにたたえている。こうなれば、簡単だった。尋道の言を、気のいい彼女は他に復唱してくれるだろう。
解決である。




