第四一話 五月晴(六)
週が明けて、月曜日だ。一日の講義を終え、北ショップ入りした孝子に、なぜか涼子はじっとりとした視線を向けてきた。
「どうされました?」
「お昼に、斯波さんがいらしてね。電子オルガンの件、よかったら今週中に打ち合わせを、って言ってたよ」
「はい」
「ところで、どうして、私が一緒に行かないといけないのかな? かな?」
「え……? なんですか、それ。私、知らないです」
「ティーンエージャーを、こんな怪しげな男と二人きりにしていいのか。ぜひ、監視すべき、だって」
「風谷さん、ご都合は……?」
「威張る話じゃないけど、夜は暇。まあ、晩をおごってくれるとか言ってたし。付いていってあげます」
「もしかして、私、だしにされたんでしょうか」
「そうよ。悪いことは言わない。じゃれ合ってないで私に付きなさい」
打ち合わせは翌日となった。食事当番が麻弥の日で、都合がよい旨を閉店間際にやってきた斯波に告げると、その場で日程が決まったのである。
火曜日になった。北ショップの閉店後に三人は連れ立って行動する。まずは、舞浜大学南門の正面にある大学管理棟だ。ここに学協本部がある。退勤手続きと更衣とを済ませる涼子を待つのだ。
孝子と斯波は管理棟には入らず、前の開けた場所に立つ外灯の一つに寄っていた。すっかり長くなった日のために、辺りはまだほのかな明るさを保っている。
「そういえば、僕のいる産学連携センターっていうのは、ここの二階にあるんだ」
「そうなんですか」
れんが造り、三階建ての建物を孝子は見上げた。
「何かあったら、融通するよ」
「お願いします。でも、卒業までご縁はないような気もしますけど」
「そうだね。理工学部の研究室にいるか、ベンチャーを立ち上げた、とかでもないと、普通の学生にはなかなか縁のない部署かもね」
会話は、途切れた。さらに話の膨らむ要素が、現時点での二人にはなかったのだ。二人のやりとりが生きてくるのは数カ月後、正確には七カ月後である。
一〇分ほどで涼子が出てきた。パンツルックが、きびきび近づいてくる。
「お待たせ」
「斯波さんが付きまとうのもわかりますね」
「でしょう」
「褒めても、何もないよ」
次に向かったのは構内北の駐車場だった。孝子のウェスタは麻弥に託してあるので、この時間、既に海の見える丘に戻っている。とめてあった大学の公用車に二人を乗せると、斯波は車を北へ、舞浜駅のほうへと走らせた。
目的地らしき場所に到着したのは午後七時半を、やや回ったころであった。コインパーキングにとめた車を出た孝子は周囲を見渡す。覚えのある道、と直前に思ったのだが、やはり、ここはトリニティ舞浜ショールームの裏手だ。
「ここって、土曜日に会った場所のすぐ近くですよね」
「うん。あの人の仕事場、そこのビル」
斯波が指したのは、コインパーキングの隣のうらぶれたビルだった。五階建ての地上部分には、一つの明かりもない。むき出しの昇降口の地階からのみ、ほのかに光が漏れている。
「はい。目的地。ここに孝ちゃんを引っ張り込むのは、ちょっと問題があるでしょ。見た目的に」
「そうね」
「中にいるのも、ごついおっさんだし。だから、涼ちゃんにもご足労を願った次第」
「だしじゃなかったみたいね」
涼子、渋い笑いだ。
「なんの話?」
「いえ。涼ちゃんさんを巻き込むために、斯波さんが話を大きくしたじゃないか、って疑惑が、私たちの間で、まことしやかにささやかれていたんです」
「まあ、失敬な。六対四で、孝ちゃん重視だよ」
「重視、ってほど、差はありませんね?」
「やっぱり、その程度の男よ。それにしても、剣崎龍雅、っていったら、そこそこ有名な人ですよね。ここにいるの……? 東京じゃなくて?」
「地元愛。あの人は舞浜出身なの。じゃあ、行こうか」
斯波を先頭に三人は階段を下っていく。照明の明るさが足りないので、全員、そろりそろりとした歩調だ。下り切った場所には金属製の巨大な扉があった。所々、塗装のはげた扉を斯波はどんどんたたく。
「剣崎さん、来ましたよ」
解錠の音が響いて、扉が開いた。姿を見せたのはワイシャツとスラックスの、長身の男性だった。一九〇以上はあるだろう。眉が強烈で、目鼻口のはっきりとしたこわもてだ。
「いらっしゃい」
意外に高い、澄んだ声だ。
「剣崎さん。話してた神宮寺さん。で、こちらは同僚の風谷さん」
「よろしく。剣崎といいます」
「神宮寺です。よろしくお願いします」
このとき、剣崎がわずかに目を見張った。それも一瞬、いや、半瞬で、孝子は気付かなかったのだが。
あいさつの後、導かれたのは、外の雰囲気から一変した光景の中だった。まず、広い。そして、黒い。それは二〇帖ほどある室内の、壁一面に並んだ機材のためだ。部屋の中央に置かれた円卓に腰掛けても、初めて見る「音楽家の仕事場」に、孝子は部屋の中をしきりにうかがっていた。
「僕も初めて入れてもらったときは驚いたね。で、剣崎さん。どんなあんばいです?」
勝手知ったる様子の斯波が、人数分の茶を淹れて、円卓に並べていく。
「大丈夫。直る。というのが、本社に、歴代の機体を展示している場所があるんだけど、そこにTT-70の美品があってね。音が出るのも確認してきた。そいつの部品を使う」
「中身を丸ごと交換するんです?」
「最悪の場合は、な。もしかしたら、ちょっとした修理で直る可能性もある。まあ、心配はいらない、ってことを言いたかった」
「なるほど。孝ちゃん、よかったね」
「はい。ありがとうございます。でも、そこまでしていただいて、大丈夫なんでしょうか」
「いい、いい。年単位で誰も触ってなかったものだ。さて。具体的な順序だけど、どうだろう。TT-70を送るのは大変だろうし、差し支えなければ、お宅に伺わせてもらえたら、と思うんだ」
孝子の愛機であるTT-70は一体型の構造で、基本的に分解ができない。総重量は一〇〇キロ近い。剣崎が、大変だろう、と言ったのも、それが理由だ。孝子は剣崎の提案を受けることにした。
この後、孝子は剣崎と連絡先を交換するのだが、渡された名刺には「トリニティ株式会社 楽器開発統括部」の文字があった。ミュージシャンらしからぬ肩書きではある。しかし、問うほどでもない、と孝子は口にはしなかった。
「あの人、トリニティの社員なんだ。まだ無名のころに誘われて、飛び付いて、そのまま。あんな顔して意外と堅実でね。でも、そのおかげで孝ちゃんの電子オルガンを直せそうだし、いい巡り合わせになったね」
帰りの車内で、そう語ったのは、堅実なミュージシャン氏の友人であるお堅い大学職員氏だった。