第四一五話 未来への序奏(一七)
パスポートの申請を終えた孝子が春菜を引き連れて重工体育館に入ったころには、午後三時を大きく回っていた。相も変わらず、メインアリーナからはアストロノーツの活動音が漏れ聞こえてくる。
「お姉さん」
北側エントランスをくぐってすぐに春菜が言った。
「なあに?」
「シェリルとアートの件って、極秘ですか?」
「極秘ってほどじゃないけど」
「では、まだ外には出してくれるなよ、ってあたりで明かしてもいいですか?」
「いいよ」
「ありがとうございます。盛大に、ハッパをかけてやりますよ」
二人がアリーナに足を踏み入れるや、気付いた美鈴が練習を抜けて、近づいてきた。
「どしたん。二人とも」
いつの間にやら音が止まっていた。選手、スタッフ、そろってこちらを注視している。この日は差し入れを持ってきていなかったので、それが気に入らないのかと思ったが、違ったらしい。春菜だ。アストロノーツは、先般の全日本バスケットボール選手権決勝で、春菜率いる舞浜大学女子バスケ部に敗れるという恥辱を受けている。にこやかに、ようこそ、と迎える気にならないのは、なるほど、理解できた。
「瞳ちゃんに用があったんですが、そういえば美鈴さんもここで練習してたんでしたね。渡りに舟とは、このことですよ」
「何が?」
「瞳ちゃんをロザリンドにください」
早速、春菜が始めた。
「は!?」
「ください」
「やぶから棒に、なんだ」
瞳もやってくる。
「瞳ちゃん。ロザリンドに来てください。私がバスケを教えてあげましょう。できれば舞姫にも来てほしいぐらいですが、重工を辞める度胸は、ちょっと、ないでしょうね」
「気が進まない」
「どうして。バスケをうまくなるチャンスですよ」
「お前の、そういう、押しの強いところが嫌なんだよ」
「そうですか。せっかくのチャンスをふいにして。これは大成しませんね」
「おい。春菜。いきなり、なんなんだよ」
見かねたか、美鈴が間に入った。
「たーちゃん。どうなってるん?」
「まだ内定段階で、この場限りにしてほしいんだけど、実は、シェリルとアートが舞姫に来ることになってね」
同時多発のうめきだ。
「たーちゃん! まじか!」
「まじまじ。『機械仕掛けの春菜』と日本のバスケットボールを研究したい、って言ってきたんで、契約する」
「やばい。舞姫、無敵じゃん」
「のんきに喜んでいていいのかな。シェリルは四年かけてアートを自分の後継者に育て上げる、って言ってるよ。シェリルが、そう言った以上、アートは間違いなくすごい選手になるよね。で、おはるは、須美もんにアートを任せる、ハッパをかける、ってここに来たはずなんだけど、相変わらず、口さがなくて、この始末」
説明の終わりと同時に、ざわめきが爆発した。全日本の行く末に始まり、舞姫の脅威まで、内容は実に幅広くなっている。
「……なんで、私だったんだ?」
これ以上はない、といった仏頂面の瞳がつぶやいた。
「私が好き放題に言える間柄の中で、一番、身体能力がある人なので」
「お前には池田がいるだろ」
「『中村塾』から数えたら、一年ぐらいは付き合っていたのに、あれが、どれだけへなちょこかわかってないなんて。瞳ちゃん。指導者にはならないほうがいいですよ。見る目がない。向いてません」
言っている内容は正しいのだが、いかんせんの物言いだ。聞き入れるには、毒があり過ぎる。くだんの「中村塾」が開塾したてのころであった。同じような調子でやって、春菜は瞳を激怒させていた。
「おはる」
重低音に、びくりと春菜の肩が震えた。
「自分で自分の轍を踏んでちゃ世話がないね。今度は一〇〇泊ぐらいする?」
「泊めませんよ」
故事を、思い出したのだろう。にやりとした瞳が孝子に呼応した。自らの無作法で怒らせた瞳と親睦せよ、と孝子に厳命され、アストロノーツの寮で一夜を明かした経験がある春菜なのだ。
「うわ。だっさい。春菜、そんなせっかんされてたんか」
いきさつを聞き取った美鈴は高笑いであった。
「おかしくありません。この、身の毛もよだつような感覚、美鈴さんにも味わわせてやりたい。瞳ちゃん。謝ります。水に流して、ロザリンドの件、考えてみてください」
「うーん」
「サラマンドは、キャンプに呼ぶ、とか、そんな程度でしょう? こちらは契約まで保証します。永久欠番とかいらないので、瞳ちゃんを取ってくれ、とチームに言いますよ」
腕組みをした美鈴が、こくこくとうなずいた。
「春菜の言うとおりになるんだったら、またとない話だと思う。実際、キムが言ってきたのは招待止まりだったしな。私に遠慮する必要はないぞ」
二人がかりでかき口説かれ、ついに瞳はロザリンド・スプリングス入りを決めたのであった。前回といい、今回といい、いいように振り回されたものだが、それをもって、ふびんな、とは端緒を開いた孝子が抱いてよい感想ではなかっただろう。




