第四一三話 未来への序奏(一五)
LDKに顔を出したのは、孝子が最後だった。帰宅のタイミングは孝子、春菜、佳世と全員が同じなので、シェリルとの通話の分だけ出遅れた形である。
ダイニングテーブルの上に並んだサンドイッチとサラダ、スープ、デザートという昼食は麻弥の手によるものだ。ここのところの海の見える丘の家事は、麻弥が一手に担っている。孝子以下三人は後期の考査期間に入ったが、四年生の麻弥は既に卒業要件の単位数を取得している。この考査期間も勉強に追われることはない。側面からの支援に専念できるわけだった。
食事を始めてすぐだ。はたと孝子は思い至った。「ワールド・レコード・アワード」の授賞式に、剣崎龍雅は赴くはずである。あの男の恋人たる隣の席の女も、おそらく誘われているだろう。
「麻弥ちゃんや」
「うん」
「『ワールド・レコード・アワード』には行くんでしょう?」
「は!? なんだよ、いきなり」
紅潮した顔で、行くらしい、とはわかった。乙女心は無視して話を進める。
「二人で? それとも、トリニティの他の人たちも行くのかな。何か、聞いてる?」
「突然、どうした」
「なんでもない」
打ち切って食事に戻る。先に問いを発したのは孝子だ。まだるっこい女めが。まずは回答しないか。麻弥らとつるもうと思っていたがやめた。
他のノミニーたちの動向はさておき、と孝子は黙考に入る。二人分の年俸の捻出だ。共に女子バスケットボール界では、飛び切りといっていいスーパースターである。なまなかの額では済むまい。カラーズの懐具合も、舞姫の懐具合も、孝子は把握していない。みさととの調整が必要になる。
中村にも話を通さねばならぬ。否やはないと思うが、礼儀として、いの一番に断りを入れるべきだった。
一つ一つ片付けていく。食事を終えた孝子は自室に戻った。中村、みさとの順番で電話をかけよう、とスマートフォンを手に取った。一日に二度も着信の瞬間に遭遇するとは珍しい。今度の発信者は、Artie Muir、である。
「誰が泣き虫よ!」
応答するなりの大声だった。直後に笑いがはじける。ご機嫌ではないか。シェリルからの吉報に触れたに違いなかった。
「アートだよ」
「泣いてなんかないわよ」
「録音してあるけど」
「えっ!?」
「うそ。よかったね、アート」
「うん。ありがとう、ケイティー」
「お礼を言うのは早いよ。シェリル、アートをしごくって言ってた」
「そうなの。シェリル、エンジェルスはやめるって」
春菜、そして、日本の研究に全精力を注ぐため、アメリカでの活動は一区切りとする判断だ。LBAのシーズン中は、アーティの専属トレーナーに就き、後継者を厳しく鍛えつつ、自らも鍛錬に努める意向という。すさまじい思い切りに、孝子は感嘆の声を発していた。
「すごい。ねえ、アート。シェリルの期待を裏切っちゃ駄目だよ」
「裏切るわけがない。必ず、シェリルと一緒に、ゴールドメダルを奪い返すわ」
力強い決意表明は、ひたすら快く孝子の耳朶に響いた。
次の中村もよかった。二人の舞姫参加を告げられたときこそ絶句していたが、やがて、受話口からは凛とした声だ。
「そうは問屋が卸しません。二人が日本リーグに来ることで、われわれもまた、世界最高峰のプレーを見極められるのですよ。受けて立とうじゃありませんか、神宮寺さん」
当然、みさとも打てば響く。二人に恥ずかしからぬ額を用意する、と息巻く。この調子なら一安心だ。
危うく忘れるところであった。「ワールド・レコード・アワード」への不参加を進言してきた尋道に、渡米と、その理由を説明しなければならない。
「そういった事情でしたら、特に断っていただかなくても、よかったですよ」
シェリルには会う。「ワールド・レコード・アワード」には参加しない。孝子の、つもり、を聞いた尋道の言だ。
「ただ」
「ただ?」
「岡宮鏡子さんとしての参加はなくても、神宮寺孝子さんとしての参加は、あり得ますね」
「どうして」
「アートかエディさんに、友人として、ぜひ、見に来てくれ、と頼まれたら、断りにくいでしょう?」
「それは、まあ」
「実は、アート。現地の予想によると、新人賞は間違いないらしいんですね」
「それはよかったじゃない」
「で、受賞したアートったら、うっかり、ケイティー、やったよー、と近づいてきて、神宮寺さんは一巻の終わりに」
なんと不吉な予想をするのだ。衝動的で、かつ、気のいいアーティなら十分に可能性はある。
「やっぱり、行かないほうがいい?」
「いえ。珍しくやる気に満ちてるので、そこは尊重したいですが」
「珍しく、は余計」
「失礼しました。行程を組んでみます。追って連絡を差し上げます」
「お願いします」
カラーズで一番、目端の利く男が請け負った。あとは隙のない一計が届くのを待てばよい。ここまで、とんとん拍子で、誠に結構なことであった。




