第四〇九話 未来への序奏(一一)
ビスケットを堪能した二人は、再び、商談に戻った。孝子が発する手当たり次第の注文を、剣崎は手際よくさばいていく。三〇分後には、概算七〇〇万円超の一大プロジェクトの草案が完成していた。
「こけら落としはザ・ブレイシーズでやろうか」
「頼まれもしないのにライブなんてやりませんよ」
「だったら僕を招待してよ」
老マスターの声に、孝子は大きくうなずいた。
「ご予約、承りました」
閑話も出だした。一段落とみてだろう。
「と。私、そろそろおいとましますね」
「あ。ケイティー」
立ち上がりかけた孝子を、剣崎が呼び止めた。
「はい」
「『ワールド・レコード・アワード』なんですけど」
「行きませんよ」
「ええ。それは郷本君に聞いています。話があるのは、ケイティーじゃなくてアートの」
孝子の胸中で、おりのように残っていた憂いが舞い上がった。
「……シェリル?」
「ああ。ご存じでしたか。実は、授賞式でのパフォーマンスをオファーされたそうなんですが、エディの言うには、どうも無理っぽい、と」
「あの人に、すごく傾倒してる、って話ですもんね」
孝子は椅子に座り直した。剣崎が岩城に説明する概要を右から左で聞き流しながら物思いにふける。
「ワールド・レコード・アワード」にノミネートされ、その授賞式でパフォーマンスを披露する。めったにない栄誉だが、アーティは棒に振るのか。なんとかできたら、とは思うものの、なんともできそうにない。アートの懇願も、シェリルを決心を翻させるには至らなかった。ならば、シェリルとは一面識もない孝子の言が、事態を動かし得るわけもない。
本人の意志だった。尊重してしかるべきなのだ。普段であれば、そう断じて、一顧だにしない事象のはずであった。しかし、と孝子の息はここで詰まる。あの破天荒の女が、べそをかいた。忍び音が耳によみがえってくる。ままならない故に心は引かれる。もどかしさを払うためには何をすればいいのだろうか。
ふと思い立った。シェリルに一曲を献じる。アーティには決して言えない、きついやつにしてやる。懇望ではなく叱咤だ。いや。挑発になっても構わなかった。ぶちかましてやる気になっていた。
いつしか「まひかぜ」の中は無音となっていた。黙然とする孝子を気遣ってのことらしかった。
「剣崎さん」
「うん」
「今、お暇ですか?」
「ぼちぼち」
「編曲とレコーディングをお願いしたいんです」
「はい。どなたかの?」
「いいえ。個人的な作です。できるだけ急ぎますので、その節はよろしくお願いします」
「あ。まだ上がってないんですね。わかりました。お待ちしてます」
孝子は勢い込んで楽曲の制作に取り掛かった。家事は麻弥に任せ切って、年末年始も海の見える丘を一歩も動かず、呻吟する。
最初の成果は楽曲名の決定だ。『Voyage』は、シェリルの長きにわたる競技生活に対する比喩として名付けた。
次は日本語の歌詞を書く。孝子の楽曲制作は、全て同じ過程をたどる。生粋の英語話者ではない孝子は、いきなり全てを英語詞で書くことができない。日本語詞、英語詞、曲の順番となる。
長い時間がたった
畏れを知らぬ若者が 分別のつく年齢になるくらいの
航海を終えるべきときなのだ
「彼女」も同意するはずだ
船体は朽ち 帆だってぼろぼろになった
もはや長い旅には耐えられない
グラスの用意をしてくれ
最高級のやつを開けよう
これまでの海路に乾杯だ
偉大な航海は終わった
ひどい見当違いだ
老いさらばえたのはあなただけ
「彼女」はどんな大波にも負けない
あなたさえ旅立つ勇気を持てば
世界にはまだ多くの大洋がある
そのうちいくつを巡った?
アルバムを繰るには早過ぎる
行こう 「彼女」が出航の合図を待っている
グラスの用意をしてくれ
最高級のやつを開けよう
これからの海路に乾杯しよう
偉大な航海は終わらない
『Voyage』には、三人の登場人物がいる。一番と二番、それぞれの論者と、二人によって評されている船舶の「彼女」だ。このうち、一番の論者と「彼女」は、実に同一人物となる。かの論者はシェリルの精神で、「彼女」はシェリルの肉体、と聴く人が聴けば察しはつくだろう。
それにしても、ひどい歌だった。こんな手前勝手を押し付けられては、シェリルもいい迷惑に違いない。思いを調べに乗せてみる、というのも傑作だ。少女のころの作ではあるまいに。らしくないおセンチではなかったか。全く。
ゆがんだ口元を意識しつつ、翻訳作業を続ける孝子であった。




