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未知標  作者: 一族
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第四〇話 五月晴(五)

 壮麗な巨大ビルの裏には、築一体何十年ものか、というぼろが立っていたりする。大小新旧の建造物の外観同様、入居者たちにも統一性は全くない。舞浜駅西口は、さながら街全体が雑居ビルのようである。珍しく、孝子が一人で歩いているのは、そんな雑然とした雰囲気の中だった。よそ行きの難しい顔をして、早足で目的の場所へと急いでいる。孝子が目指しているのはトリニティ株式会社舞浜ショールームだ。

 世界有数の総合音楽企業として知られているトリニティ株式会社は、孝子にとってなじみ深い企業だった。孝子の亡母響子が、トリニティの福岡ショールームに勤務していた縁である。響子の遺品の電子オルガンも、もちろんトリニティ製だ。

 その電子オルガンが壊れた。電源を入れたら、ポン、という音がしたかと思うと、以後はうんともすんとも言わなくなったのだ。そもそも、響子が使っていた時点で、ベテランの風情を醸していたやつだった。もしかすると二〇年近く前の製品かもしれない。反応の悪いスイッチがある、などの細かい故障はあったが、今回はかなりの重傷とみえた。電化製品であることを考慮すると、致命傷の可能性も高い。

 念のため、孝子はトリニティのサポートセンターに問い合わせた。返答は、製造打ち切りで部品の保有もない、だった。電話を受けた女性の言うには、孝子の愛機であるTT-70は、二〇年どころか、製造から三〇年を経ている機種であった。さすがに無理だ、と孝子も観念した。思い出深い品なのだ。仕方ない。しかし、趣味としての演奏は、やめたくなかった。後継機の物色を決意せざるを得ないだろう。

 この日は土曜日で、麻弥も春菜も在宅だった。部活が午後からの春菜が同行を申し出てきたが、孝子は断っていた。

「長くなると思う」

 何しろ、インターネットの事前調査では、最廉価機種でも二〇万円を下らない価格と判明している。入念に触れて、吟味しなければならない。この際、気兼ねの対象となる存在は、ありていに言えば邪魔なのだ。

 トリニティ舞浜ショールームに孝子が入ろうとしたときだった。

「わが友、孝ちゃん」

 見ると、斯波遼太郎がいる。見慣れたスーツ姿ではなく、黒のスキニーパンツにグレーのロングカーディガンという装いだ。手には黒革のポーチを持っている。相変わらず、姿のよい男だ。

「斯波さん。こんにちは。お一人ですか」

「さっきまではお二人だったけど、今はお一人だね」

「お二人だったんですか……! ないない」

「失礼な子だな。当たってるけどね。男と、ご飯を食べてた」

 言って、斯波は笑った。

「孝ちゃんは、ここにご用?」

「はい。使ってる電子オルガンが壊れちゃって」

「修理?」

「できたらよかったんですけど。古くて、もう部品もないので、新しいのを」

 なぜか、斯波は何度もうなずきながら沈思していたが、やがて、こう言った。

「修理しようとしたぐらいだ。それで動くなら、動かしたい?」

「はい。思い入れのあるものなので」

「型番は、わかる?」

「……TT-70、ですけど」

 斯波はポーチからスマートフォンを取り出し、何やら操作を始めている。

「ちょっと、時間をちょうだいね」

「はい」

「どうも。さっきぶりです。あの、ちょっと、お伺いしたいんですがね。TT-70って、電子オルガン、わかります?」

 先ほど、一緒に食事をしていた、という男性に電話を掛けたらしかった。

「ええ。だいぶ、古いものみたいですけど。直せます? ……孝ちゃん。どんな症状?」

「電源を入れたときに、ポン、って音がして、それっきり、音が出なくなって」

 斯波はうなずき、孝子の言ったことを、そのまま通話相手に復唱した。

「はい。はい。じゃあ、お待ちしてますんで。よろしくお願いします。はい」

 通話を終えた斯波が孝子に向き直った。

「もしかしたら、直せるかもしれないんで。新しいやつを買うのは、少し待ってもらってもいい?」

「それは、構いませんが。トリニティに関係のある方ですか?」

「うん。孝ちゃんは、剣崎龍雅(けんざきりょうが)って、知ってる?」

 その名に聞き覚えはあった。孝子でも知っている程度には有名な音楽家である。

「そう。あの人、まだ売れてないときに、サービスもやってたんだ。ちょっと、当たりを付けてみてくれる、って話なんで。しばし待たれよ」

「はい」

「何かあったら、学協に行ったときに伝えるよ。じゃあ、取りあえず、今は、これで」

 それだけ言うと斯波は去った。守備範囲外らしく、あっさりとした扱いである。

 斯波と別れた孝子は、予定どおり、トリニティ舞浜ショールームに入った。剣崎龍雅氏が、あのおんぼろを直してくれるなら、素直にありがたい。しかし、おんぼろにはサポートセンターのお墨付きがある。いくら著名な音楽家が動いてくれているとはいえ、分が悪い、と思う。三〇年前の製品の復活に、過度の期待を寄せるべきではないだろう。そんなことを考えながら孝子は、入念な吟味を済ませると、パンフレットと販売担当者の名刺を携えて帰途に就いたのだった。

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