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未知標  作者: 一族
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第四〇八話 未来への序奏(一〇)

 盛夏のころだ。舞姫の舞台演出を打ち合わせるため、トリニティ舞浜ショールームにザ・ブレイシーズが集ったことがあった。このとき、使用楽曲のチェックを行う場として、プレハブ型の防音室が用いられたのだが、孝子を沸き立たせていたのは、これだった。

 防音室の存在に少しく興味を持った孝子は、パンフレットを入手していた。中に興味深い一項があった、と記憶していた。イブのパーティーを終え、帰宅した後に確認すると、やはり、だ。不定型タイプの防音室である。舞浜ショールームに置かれていたプレハブ型は定型タイプで、最大でも四帖程度の仕様しかない。一方、不定型タイプは部屋を丸ごと防音室に改装するオーダーも可能、とある。広々とした部屋で、存分に音楽に打ち込めるのだ。熱くならずにはいられなかった。

 翌日、孝子は朝一で剣崎龍雅にメッセージを送信した。防音室の商談を行いたい、という文面であった。まだそばに彼女がいるだろうし、返事は遅れて構わない、と余計な一言も添えておく。剣崎の彼女とは、孝子の親友、正村麻弥である。イブデートとしゃれ込んでいた二人なのだ。

 にもかかわらず、剣崎の返事は早かった。麻弥はお手洗い、とあちらのメッセージにも余計な一言が添えてある。談合の結果、商談は翌朝と決まった。

 明けた一二月二六日の午前一〇時、喫茶「まひかぜ」では、音楽家と老マスターの岩城が孝子を待っていた。

「剣崎さん。昨日、戻ってから、うちのねんねが、ずっとほわっとしっぱなしなんですけど。おかげで、昨日の晩と今日の朝、私が両方とも作らなきゃいけなくなって、ひどく迷惑しましたよ」

 椅子に腰を下ろした孝子は、隣の大男をうかがう。

「それは申し訳なかった」

「割引で許してあげます」

 孝子は持参のトートバッグをまさぐり、見開きのクリアファイルに収めた「本家」の平面図を引っ張り出した。

「これ、叔母が建て替える家なんです。で、この東側の一番北の部屋を私が使わせてもらえることになって。トリニティの防音室に、不定形タイプってあるじゃないですか。あれで、部屋ごと防音室にしたいんですよ」

「拝見します」

 ここで孝子にコーヒーの入ったカップが供された。

「いただきます。そうだ。岩城さん。久しぶりに、あのビスケットが食べたいです」

 あのビスケットとは、岩城が得意とするアメリカ式ビスケットだ。

「材料がないよ」

「買ってきたら作っていただけますか」

「いいよ」

「岩城さん。俺の分も、お願いします」

 平面図に落とした視線を動かさずに剣崎が言った。

「じゃあ、剣崎君がお金を出して、ケイティーが買いに行く」

 コーヒーを飲み干した後、孝子は岩城に渡されたメモを持って店を出た。買い出しだ。

「あれ。おじさんは?」

 二〇分ほどで「まひかぜ」に戻ると、剣崎の姿がない。舞浜駅地下で買い込んだものを岩城に手渡しながら孝子は問うた。

「下の端末じゃないとトリニティの内部資料が見られない、とかで行ったよ」

「そうでしたか」

 と話していたら、剣崎が戻ってきた。

「や。お帰りなさい」

「はい。どうでした?」

「部屋が、広いんで。ちょっと高くなりそうですね。一〇〇〇近くかかるかもしれませんよ。もちろん、勉強は精いっぱいさせていただきますが」

「さっきの割引は冗談です。一〇〇〇で構いません。剣崎さん。監修をお願いしてもいいですか? その費用も請求してくださって結構です」

 孝子の依頼を音楽家は即座に応諾した。

「任せてください。施工主は叔母さまなんですね?」

「はい」

「では、ごあいさつに伺いたいので、その旨、伝えておいていただけますか。あと、叔母さまの連絡先を教えてください」

「わかりました。あ。工事を担当する大工さんの名刺もありますけど」

「お預かりしておきましょう」

「剣崎さんの名刺もいただけますか? 叔母と棟梁に渡しておきます」

「ええ。どうぞ」

 あれこれとやりとりするうち、店内にビスケットの焼ける香ばしい匂いが立ち込めてきた。思わず孝子は鼻をひくつかせた。

「ぼちぼちだね。二人とも、話は食べた後にしないかい」

 岩城の声に、孝子と剣崎は同時に会話を止めた。焼きたてのビスケットを前にして、これをお預けにするという法はあるまい。商談は、いったん休止である。

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