第四〇五話 未来への序奏(七)
「ワールド・レコード・アワード」は、日本でもそれと知られた音楽賞だ。その候補に日本人がノミネートされた事実で、岡宮鏡子の名は剣崎龍雅の名と共に、ちまたで持ち切りとなっている、と孝子は聞いた――伝聞なのは、対応を尋道に一任し、自分は完全に一線を画していたためだ。
公的な対応では、唯一、岡宮とのパイプを持つとされる剣崎が、私的な対応では孝子自らが、それぞれつれない対応を連発したおかげで、岡宮鏡子の名前は瞬く間に消失していった。「ワールド・レコード・アワード」を巡るエピソードは、これにて打ち止めである。結構なことだった。
それよりも、今の孝子が朝な夕な思いをはせるのは、アーティとシェリルの、その後だった。一週間近くたったが、アーティは連絡をよこさない。試しに現地のバスケットボールに関するニュースをあさってみても、シェリルの進退が話題となっているものは見当たらなかった。発露に至らず、立ち消えとなったのなら、何よりなのだが。
年内の講義も終わり、冬季休暇に入って最初の日曜日だ。午後、舞浜大学千鶴キャンパスの体育館では「北崎塾」――春菜のSNSが撮影を行っていた。初回で、女の子、と特に明言したように、想定するSNSの試聴層は小学生、中学生ぐらいまでの少女たちである。「至上の天才」、北崎春菜が、SNSを通じて彼女たちの天分を開花させてやろう、という方針で回を重ねている。毎回、披露される春菜の超人的な技能を目当てに、界隈以外からの注目度も高く、ついに協賛も付いた。スポーツアパレルブランド、アウラを展開する桜楽繊維工業株式会社だ。開塾以来の道程は順調といっていい。
その時、孝子はアリーナの隅で、ベンチに一人、ぽつねんとしていた。初回の撮影で春菜の絶技に接した際、割と大きな感嘆の声を発してしまい、その声が見事に拾われていたことが原因だ。二度と失態は演じぬ、と距離を置いていた。
遠くにいては撮影の様子も判然とせず、暇を持て余してスマートフォンを眺めていれば、ふつふつと疑念が湧いてくる。春菜に誘われるまま、ずっと付き合っているが、自分が立ち会う意味は、なへんにあるのか、と。補佐の頭数なら十二分に足りていた。舞姫スタッフに加え、舞浜大学女子バスケットボール部のヘルプがあるのだ。
次は、来るまい。決心してしまうと、気が晴れた。スマートフォンの画面に映していた電子新聞のニュースに視線を戻す。この冬は野菜が安値で、余剰が出ている、とある。確かに、海の見える丘でも鍋のオンパレードになっている。基本的に切り刻めば済む鍋は楽でよいので、つい多用してしまう。
と、画面が切り替わった。目に飛び込んできたアーティ・ミューアの名に胸が騒いだ。なんとなく、嫌な予感がした。
「ハーイ」
返事はない。
「アート」
無音が続く。
「駄目だったの?」
思い切って、問うてみた。
「……ええ」
ようやく返ってきたアーティの声は、心細くなるぐらいに小さかった。予感は的中したのだ、と悟らざるを得なかった。
考えてみれば、仕方がないのかもしれなかった。二〇と四〇は、現時点における春菜とシェリルの年齢差になる。正確には、春菜が早生まれなので、ほぼ、が付いた上で倍も違っている。シェリルが語った、年齢による四年間の重みの差異が適用できてしまうほどに離れているのだ。アスリートにとって四〇歳は、もはや老齢といっていい。もう一むちを強いるがごとき物言いは、やはりぶしつけだったのだろう。余計な口を差し挟んだものであった。
自分の至らなさを自嘲する思いの孝子だったが、そんな薄っぺらな感情は、すぐに吹き飛んだ。受話口越しに聞こえてきたのはおえつだった。
染み入るような忍び音が脳裏に響く。衷心からの悲哀に触れて、言うべき言葉は見つけだせず、文字どおり孝子は、がっくりと首を垂れていた。




