第四〇三話 未来への序奏(五)
翌日、正午過ぎの海の見える丘に、意外な来訪者だ。郷本尋道である。午後の部活に向かう春菜と佳世を送迎する麻弥、と三人が一斉に外出して、三〇分ほどたったころだった。
「珍しい」
ドアホンの液晶モニターに映る顔に向かって孝子は言った。
「電話、何度もかけたんですが、つながらないので。正村さんに伺ったら、家にいるはず、と」
「それで、わざわざ?」
「早いほうがいいかな、と思いまして」
何事か。玄関に出て、屋内に迎え入れようとすると、尋道は首を横に振った。
「お一人でしょう。こちらで結構です」
「寒いんだけど」
一二月も半ばへと差し掛かりつつあった。青天の日中とはいえ、暖房の効いていない場所で、結構、と言われたって、こちらが結構ではない。遠慮しているのだろうが、かえって迷惑だ。
「そうですか」
孝子の熱弁に、渋々と尋道は上がり込んできた。手洗い、うがいの後、ダイニングテーブルに着かせ、確認も取らずにコーヒーの準備を始める。自分は食後に飲んだばかりなので尋道の分だけだ。
「何があったの?」
対面キッチン越しに声を掛けた。
「いろいろと。まず、斎藤さんなんですが、丸め込んでおきましたので、水に流してください」
そもそも、意欲も能力も遠くみさとに及ばぬ孝子を、なぜ巻き込もうとしたのだ。一人でやれば手っ取り早く済んだ話だろう。もしや、一緒に楽しくやろう、とでも考えていたのか。ばかな。いずれは使用者と被用者になる間柄である。ぼちぼち公私のけじめを意識し始めるころ合いだ。斎藤みさとともあろう者が、いつまでも仲よしサークル気分では困る。みさとは悪手を打った、と断言してよい。大いに反省せよ――このからめ手からの攻めで、愚痴りにやってきたみさとを、尋道は陥落せしめたという。
「言ってくれるね」
尋道にコーヒーを供した孝子は、その正面に腰を下ろした。
「でも、そのとおりでしょう?」
「うん」
尋道はカップに手を伸ばした。一口含んで、受け皿に戻す。
「一件落着でいいですか?」
「いいよ。郷本君に怒られた斎藤さんの顔、見てみたかったな」
「なんで私が怒られてるんだ、って、初めはぽかんとしてましたよ」
「でしょう」
「次なんですが、北崎さんのロザリンド行きの件は、神宮寺さんの指示どおり、各務先生の了承を得た上で、エディさんにエージェントをお願いしました。追って連絡が入るでしょう」
「斎藤さん?」
「いいえ。僕が預かりました。あの人、おそらく、税理士試験に受かってると思うんですよ。そうすると実務のため、ご両親の事務所に行かれますね。時期によっては、北崎さんのロザリンド行きに、斎藤さんが注力できない可能性もあると思いまして」
この周到さよ、と孝子は舌を巻く思いだった。
「やっぱり、こういうことは郷本君だね」
「多少、出しゃばったかもしれませんが」
「いい、いい。これで、話は終わり?」
出張ってくるほどの話でもなかったろうに、とぶしつけな述懐を孝子は続けた。
「カラーズのツートップに不穏の気配ですよ。僕としては一大事だったんです。それと、終わりじゃありません」
「まだ、あるの?」
うなずいた尋道は、再び、カップに手を伸ばした。今度も、一口だ。
「エディさんと話をしていたときに、『ワールド・レコード・アワード』の話になりましてね」
「ふうん」
「消息筋から、アートの『FLOAT』がノミネートした、と伝わってきたそうで」
「よかったじゃない」
「アートの友人としては、同意です。岡宮鏡子のマネージャーとしては、本当によかったのか、と確認したいところですが」
何を言っているのか。目顔で孝子は次を促した。
「ノミネートされたら、レザネフォルに行く、とエディさんに言ったそうですね」
うっ、と孝子は息をのんでいた。記憶は、ある。するわけがない、と思っての安請け合いが、あだとなったか。アメリカになど、行きたくない。
「間違いないの?」
「眉唾な話を話題に上せてくる方でもないでしょうし。確信が、おありなんでしょう」
「ワールド・レコード・アワード」の四大賞典と称される、「最優秀アルバム賞」、「最優秀楽曲賞」、「最優秀歌唱賞」、「最優秀新人賞」、以上四賞のうち、ノミネート資格のない「最優秀アルバム賞」を除いた三部門にアーティと『FLOAT』はノミネートされる、らしい。
「行かないと駄目かな」
「ノミネートの権威をおとしめたりはしない、なんて豪語なさったそうじゃないですか」
それも、記憶に、ある。エディめ、憎たらしいほどの記憶力のよさだ。
「敏腕マネでも、どうにもならない?」
「なんとかします」
「本当に!」
つまらぬ捨てぜりふを吐いた報いだ、とでも嫌みをぶつけられると思っていたので、予想外の返答に孝子の声は弾んだ。
「なんといっても世界規模の賞レースですよ。少しカメラに映るだけでも、とんでもない反響を呼ぶ可能性があります」
「あの絶世の佳人は誰だ、って」
「ええ」
ちゃめっ気に真顔で応じられては、いかな孝子もばつが悪い。
「今のは、寝言は寝て言いな、みたいな返しでよかったんだよ」
「からかったんじゃありません。実際、佳人でしょう。どこの誰か、と探られて、そこから岡宮鏡子は、かのゴールドメダリスト、神宮寺静の姉とかいった情報が漏れ伝われば、間違いなくろくなことになりません。本人にも、周囲にも、はっきりと悪い話です。断りますよ。構わないですね」
「うん」
「これに懲りたら、一人で先方と交渉するようなまねはやめてください」
「はい。必ずマネージャーを通します」
くぎを刺されても、孝子は素直にうなずいている。普段なら、ぶんむくれて、そっぽを向いているところだ。助け船の船頭が相手だからと、現金な話ではあった。




