第三九話 五月晴(四)
すっかり距離の縮まった相手とはいえ、いきなりもたれ掛かるのは危険だった。今後とも、よい関係を築きたい相手だけに、なおさらである。孝子は三日目の出勤時に、昨夜の砕け過ぎた振る舞いを涼子に陳謝した。
「えー。あやまらないでよー。言うほど、そんな大暴れでもなかったよ?」
「そう受け取っていただけたのでしたら、私も一安心です」
「気にしない、気にしない。あれだよ。この年にもなると、なかなか新たに友達とかできないし。新たに、ちょっと生意気な友達ができた、って思えば」
老成したことを言っているが、涼子、二六歳という。ちなみに、斯波は孝子とちょうど一回り違う三二歳とか。
ところで、孝子が北ショップでアルバイトを始めたと知るのは、近しい間柄では麻弥と春菜だけだった。同居人として、直接の影響を受ける二人だから、報告は当然といえる。
麻弥は力強く協力の意志を示した。これは、自分がアルバイトのときには迎えに来てもらうなど、孝子に借りもあるので当然といえる。一方の春菜はというと、部活に行く前に必ず北ショップに立ち寄るようになった。北ショップに新たな常連の誕生だ。こうして孝子のアルバイトは、順調な滑り出しとなったのである。
六月中旬のある日の夕方、北ショップはいつもどおりに閑散としていた。店内には孝子と涼子の二人きりである。じきに斯波も現れるだろう。孝子は一日の営業で乱れた棚の整理、涼子は奥の机で業務日誌と格闘中だった。
「いらっしゃいませ」
来客を知らせるベルの音に、棚に向かっていた孝子は振り返って声を出し、転瞬の間で棚に向き直った。養父にして実父の姿があった。スーツ姿は、勤務が終わっての帰宅途中だろう。隆行の勤務先の舞浜大学病院と鶴ヶ丘の自宅、舞浜大学千鶴キャンパスは、それぞれの位置が、やや底辺の長い二等辺三角形の頂点に当たる。ついでに、の道順ではない。わざわざ足を向けたのは確実だ。
「何してるの?」
「就業中です」
傍らに立った隆行に、孝子はちらと視線を送りながら返した。
「あ、ああ。そうか。じゃあ、外で待ってるよ」
「うん」
棚の整理を済ませてレジに戻ると、涼子も気付いたようで、けげんな顔をして孝子を見ている。
「すみません。父です」
「あら。お迎えにいらしたの? じゃあ、もう、上がって」
「いいえ。最後までやります」
「そう……? いいの?」
外で何やら話し声がしていたかと思うと、斯波が現れた。小走りにレジに向かってくる。
「孝ちゃん。お父さんがいらしてるよ。涼ちゃん、もういいでしょ?」
「それが、最後までやってくれる、って」
「ええ?」
「どこに、親が迎えに来た、って早退を許す会社があるんですか」
硬い表情と声の孝子である。
「ああ。それは、確かに、孝ちゃんの言うとおりだ」
斯波は言いながら商品の棚に向かい、缶コーヒーを二本取って、レジに戻ってきた。
「お父さんは、缶コーヒーは大丈夫かな」
「あまり甘いのは好きじゃないみたいですけど、それ以外なら」
会計を済ませて、斯波は再び外に出ていった。そのまま、この日は斯波は北ショップに戻らず、孝子は一人で清掃活動を終えたのだった。
クラブハウス棟を出ると、玄関前では隆行と斯波が缶コーヒーを片手に談笑していた。
「あ、お疲れさま。孝ちゃん、涼ちゃんは?」
「まだ、お店ですよ。定時になった瞬間に追い出されました」
「まあ、そう言わないの。あ。先生。缶、捨てておきます」
「うん。ありがとう」
斯波に会釈して、二人は歩きだした。
「麻弥ちゃんに聞いたの?」
「ん? いや、ここの職員の検診は大学病院でやるんだけど、その時に、私と同じ名字の、すごい美人の子が学協の売店にいたけど、親子か、って聞かれて。ああ、お前か、って」
「そう」
「さっきの彼も、検診で私を見知ってたってさ」
「そうだったんだ」
「突然、アルバイトなんか始めて、どうしたの。お金、足りてないのかい?」
「ううん。この靴、麻弥ちゃんからお祝いにもらったんだけど、お返しを買うお金が欲しくて」
孝子は右足を一歩出して、インディゴのドライビングシューズを隆行に見せた。
「そうか。そういう事情なら、お小遣いで解決、ってわけにはいかないね」
「うん」
「じゃあ、帰ろうか。送るよ」
「私、車」
「ええ……?」
手短に経緯を語った孝子に、隆行は大仰に頭を抱えてみせる。
「なんだ、そうだったのか。帰りは送ろうと思ったんだけど」
「車は置いていけないから、海の見える丘までは別々になるけど。夜に、麻弥ちゃんと北崎さんを迎えに、車を出してくれるなら、乗ってもいいよ」
厚かましい言い草は、養女が養父に向けてのものではない。それに気付いた隆行は、もちろん、と笑顔で応じたのだった。