第三話 フェスティバル・プレリュード(三)
神奈川県舞浜市中区海の見える丘が、現在の孝子と麻弥の住所地だ。高台に位置し、その名のとおり、眼下に海を望む、県内でも随一の景観を誇る高級住宅街である。
孝子と麻弥が海の見える丘で生活することになったのは、神宮寺美幸のあっせんによった。一年前、養女を受験勉強に専念させる環境の構築に腐心していた美幸の元に、興味深い相談が寄せられたのだ。学生時代の友人から、父親が他界した後の空き家の扱いにあぐねている、旨であった。神宮寺家の当主として、動産、不動産の扱いに通じる美幸は、この手の憂い事に触れる機会が多い。
いわく、癖のある間取りで、別に家族と暮らす自分は住めない。現状、建て替えてまで住むつもりもない。さりとて、自分の生地なので、海の見える丘と縁を切るのは惜しい、と感じている。では、賃貸を、といこうにも、めったな賃借人を引き当ててしまうのが、怖い。このままでは毎年、無駄な固定資産税を払わなければならない。何か、妙案を授けてはいただけまいか……?
くどくどと語られたが、不動産の活用には、自分で使う、誰かに売るか貸す、この三種類しかないのだ。自分で使うのも、売るのも考えていないなら、貸すしかない。当該の物件は中区海の見える丘に所在した。海の見える丘といえば、閑静な住宅地として有名だが、丘を下れば一気に開けて喧噪に満ちる。この利便性は魅力だ。田舎にはない予備校も駅前に軒を連ねている。養女にうってつけといえた。懸案の間取りも、少人数で住むなら問題ない造りだった。結論を下した美幸は賃借人として名乗りを上げ、友人と賃貸借契約を結んだ。そして、麻弥は、養女の頼もしい親友としての役目を期待され、招聘を受けたわけだった。
海の見える丘でも奥まった場所にある平屋に二人は住んでいる。この1LDKには、美幸の友人が述べたように、いささか癖があった。平屋を横長の長方形と見立てたとき、全ての部屋が中央のLDKと扉一枚を隔てて接している。北東に納戸、東に玄関、西に主寝室、北西に水回り、北に炉畳を備えた申し訳程度の和室、という配置で、いずれもこぢんまりとしていた。完全な好事の家といえた。かつてこの家に住んでいた老夫妻が、ついのすみかとして、思うさまに仕上げた結果であった。
家を出た孝子と麻弥は、生活道路を抜けた先の桜並木を、ゆったりとした足取りで下っていた。見上げたつぼみは、あと一歩、といったあたりである。春遠からじ、だった。
「お花見、行こうか」
坂道の中ほどで孝子が言った。
「え。そういうの興味あったっけ……?」
「ないよ。ただ、ぼんやり車を走らせるよりも、目的地があったほうが、いいかな、って」
「お。ついに、動くか」
「納車記念ドライブに行こうよ。今、注文したら、桜の、ちょうどいい時期に、来るんじゃない?」
桜のつぼみを見て思い立ったらしい。
「そうだな。中古なら、納車も早いし」
「いや。どうせなら長く乗りたいし。新車かな」
「おお。予算は、どれくらいを考えてる?」
「一五〇〇ぐらいまでなら」
「え……?」
「母親の遺産」
「それは、使っちゃ駄目だろ……」
「むしろ、使ってしまいたい。お勧めは?」
「うーん……。できれば、ワタゲンがいいんだけど」
ワタゲンこと渡辺原動機株式会社は、麻弥の愛車、WRSの製造元だ。ちなみにWRSはWatanabe Runabout Sportの略である。
「ワタゲンだけは、マニュアルを見捨てないんだよ」
マニュアルトランスミッションの消滅は、時代の潮流である。世界的なスポーツカーのメーカーすら脱マニュアルを宣言して久しい。しかし、ワタゲンは違う。いまだ複数の車種にマニュアルトランスミッション仕様を設定しているあたり、執念といっていい。自社の車を指し、「運転する」のではなく「操縦する」のだ、とうたった面目躍如であった。
「一マニュアルファンとしては、そういうメーカーは買い支えないと、って思うんだ。でも、ワタゲンは、プレミアム路線を突っ走ってて、結構、するんだよな」
「よくわからないけど、渡辺原動機なら、今の車の後継みたいなのは、絶対に買わない」
「なんでだよ。お前、運転したかった、って言ってたじゃないか」
「運転はしたかったけど。あんな荷物の入らない車は駄目だよ。二台持ってて、一台があれなら、許す。一台しかないのに、あれは、許さない」
人も、物も、積載量は最低級のクーペなので擁護は不可能だ。
「じゃあ、SUVとか?」
「それが、どんな車なのか、わからない」
「ちょっと寄ってみるか? ついでに、担当の人に、WRSを廃車にする、って言うわ」
坂道を下り切った二人は、左手の角地に店舗を構える自動車ディーラー、神奈川ワタナベ海の見える丘店の敷地に入った。
「これは、正村さん」
スーツの男性が店舗を飛び出してきた。広いというよりは、はげ上がった額が目につく中年は蟹江圭史だ。麻弥の担当営業である。住まいの最寄りだった海の見える丘店を、麻弥は行きつけとしていた。
「こんにちは。蟹江さん」
「は」
蟹江の視線は麻弥をやや外れていた。その方向には孝子がいる。見目は抜群の親友だ。あっけにとられるのもわかる。
「友人です。車、買うかも、って言うんで連れてきました」
「左様でしたか。私、神奈川ワタナベ海の見える丘店の蟹江と申します」
差し出された名刺を孝子は受け取った。
「神宮寺です」
「あ。蟹江さん。WRS、廃車にします」
「承知しました」
うなずいた蟹江の顔には微笑が浮かんでいた。
「実は、たって、とおっしゃるのでなければ、お止めしようと考えていました。二一年間、よく走ったと思います。もう動かさないほうがいいと思いますので、後は、こちらで引き受けましょう」
「お願いします」
「はい。さて。神宮寺さん。お車をお探しなんですね。正村さんと同じ、WRS、いかがですか。正村さんがお乗りのものの、三代後のモデルが、先月、デビューしたんですよ」
「蟹江さん。こいつ、WRSだけは絶対に駄目、って」
「おや」
「スーパーの袋を入れるのにも四苦八苦する車なんて。無理です」
「確かに。でしたら、ウェスタなんて、どうでしょう。若い女性にも人気のあるモデルなんですが」
孝子がちらりと視線を麻弥に向けてきた。
「さっき言ったSUV。コンパクトSUVだけど、WRSよりははるかに入る。見せてもらおうよ」
「ちょうど試乗車がございますので、いかがですか」
「私、まだ免許を持ってないので。麻弥ちゃん、見立てて」
「任せろ」
海の見える丘店に配されていたコンパクトSUV、白いボディーカラーのウェスタは、残念ながらオートマチック車であった。が、麻弥はマニュアル愛好者ではあるものの、オートマチック車を嫌っているわけではない。広範な車好きだ。後に、オートマなんぞには乗らぬ、とほざくようになる心の狭い親友とは、その点、違う。
孝子の決断は早かった。試乗中の麻弥の激賞を受け、店舗に帰り着くと同時に、契約の意志を蟹江に告げたのだ。
「お前、そんなにあっさり決めちゃっていいのか……? 免許取って、改めて試乗したほうがいいと思うんだけど」
「麻弥ちゃんの見識を信じる、って言ってるのに。何が不満なの?」
唐突に、来た。ただでさえ低い親友の声が重低音になった。眉がかすかにつり上がり、細められた目から射出された眼光は、麻弥がひそかに「殺人光線」と呼ぶ鋭さだ。孝子の実像である。麻弥は渋い表情を蟹江に向けた。
「こいつ、こんななのに、めちゃくちゃ気が強くて」
「なるほど。でしたら、私も、そのつもりで」
蟹江は二人を店内にいざなった。相対したテーブルの上に営業ツールを置き、グレードは、オプションは、とがんがんくる。受ける孝子も言下にイエスとノーを繰り出す。麻弥はあぜんと応酬を見守るだけであった。
「かわす気が満々のお客様でしたら、こちらも一歩を引くところですが。神宮寺さんは、一気呵成がお好みとお見受けしましたので。これも、セールスの差す手引く手、というやつでございますね」
商談を終えた担当営業氏の言であった。