第三九七話 さかまく火群(二七)
音沙汰なしの期間は、実に一〇日に及んだ。長沢の那古野女学院転職問題だ。その間の孝子は、気をもんでか、そわそわする向きが多数を占める周囲とは、完全に一線を画していた。
便りのないのはよい便り、というではないか。ならば情勢は順調に推移している、と考えていいだろう。だいたいからして、恩師の栄達を邪魔する愛弟子など、いるはずがない。いくら須之内景がつらかろうと、黙って長沢を見送るに違いなかった。そう決め付けて、孝子は平然たる態度を崩さなかったのだ。
さて。一一日目だ。午後六時一五分、閉店準備の真っ最中だった舞浜大学千鶴キャンパス学生協同組合北ショップに各務が入ってきた。部活の途中に抜け出したらしい。マリンブルーのジャージー姿である。
「おう。少し早過ぎたな」
迎えた孝子たちのあいさつに、各務は貫禄たっぷりに応じた。
「孝ちゃん、上がる?」
業務日誌と格闘中だった涼子が声を上げた。
「いかん。時間まで、しっかり務めさせろ」
わざとらしく舌打ちの音をたて、孝子はモップ掛けに戻る。もとよりサボるつもりはない。ちゃめっ気だ。
「孝子。外にいる」
各務は顎をしゃくって、店の外を指した。
「各務先生。まだ一〇分以上あります。中でお待ちになられてはいかがですか?」
涼子は立ち上がって、自らの座っていた椅子を示している。
「いいかね。そういえば、二人は舞姫に協力してくれてるんだったな。なら、構わんか」
「何が、ありましたか」
斯波が問うた。
「うん。教え子どもが、な。孝子と、舞姫の中村君に不義理をすることになりそうなのさ」
どっかと椅子に腰を下ろしながら、各務は吐き捨てる。……教え子ども、ときた。複数形だ。須之内景も入っているようである。
「不義理とは、穏やかではありませんね。あ。各務先生。何か、お飲み物は?」
「コーヒー、甘ったるいやつはあるかな。孝子。立て替えておいてくれるか」
「わかりました」
斯波が缶コーヒーを手にしてレジに向かった。素早く入って、孝子はレジを打つ。
「ありがとう」
手渡された缶を開け、一口付けた各務は話を続けた。
「静やらを教えた長沢美馬ってやつ、私の教え子なんだが、舞姫に関わる予定だったのさ。それが、つい最近になって、那古野からスカウトがあってな」
「那古野というと、北崎春菜さんたちの母校ですか」
「そうさ。とてつもなくいい話なんで、行け、と。舞姫には、とてつもない迷惑を掛けるが、そこは、私がいくらでも頭を下げるし、あいつが開ける穴は、なんとしてでも埋めてやるんで、行け、と」
「各務先生。ご心配は無用に願います。私、もし長沢先生が舞姫に義理立てして、ナジョガクさんに行かない、なんておっしゃるようだったら、たたき出すつもりでした」
「すまんな。お前、いいやつだ」
各務は机に手を突いて孝子に頭を下げた。
「……それに引き換え」
「須之内さんですか?」
「うん。全日本に、須之内っていただろう。有名な話なんで、二人も知っているかもしれんが、あれは、美馬が一から鍛えたやつでな。そういう相手と、社会人でも一緒にやれる、っていうんで大喜びしていたところに、今回の話さ」
舌打ちが出た。
「釣られて、美馬も揺れだしやがって。ばかが。孝子」
「はい」
「あれも那古野にやる。幸い、うちの部の推薦は、私の教育人間学部で取ることになってるんでな。今のままじゃ、ろくなもんにはならんだろうが、残り二年でなんとかするしかない」
相変わらず断片的な物言いの各務だったが、要するに、麻弥および春菜の提示した危惧は、物の見事に的中してしまったわけだ。しかして師匠は、惑乱する不肖の教え子ども強引に那古野送りにした、と。教育人間学部がどうの、二年がどうの、とは教職課程を指しているものと思われた。
「舞姫は、選手もスタッフも、ぎりぎりだったな。それを、本当に申し訳ない」
現在、大学の二年生で、舞姫への参加が二年後になる景の不在は、さほどの大事と思われない。深刻なのは四人が三人になるスタッフだ。中村との談合が必要になる。カラーズからの出向も検討しておくべきだった。いずれにせよ、大至急である。




