第三九五話 さかまく火群(二五)
孝子によるレッスンは順調そのものだ。師弟のうち、どちらが優秀であったのか、それはわからぬが、美鈴の歌舞は一足飛びの上達をみせている。
「私、センスあり過ぎだな!」
「寝言は寝てから言いな」
「また始まった」
隙あらばと始まる闘争を協力者の瞳がいさめる、いつもの流れが、この夜も発生していた。
「でも、始めて一週間で、すごく上手になりましたよね」
「ほら。センス抜群」
「須美もん。ほめるな。調子に乗る」
「市井さん。あの人って、とてもそんなふうには見えないけど、めっちゃ体育会系ですよね」
「だから、私たちと相性がいいんだな」
共に女子バスケットボールの名門校出身で、努力と根性を身上とするような美鈴と瞳だ。孝子の厳しい指導に対する親和性は高い、といえた。
「美鈴ー。アイス、買ってこーい」
「たーちゃんの体育会系のイメージって、そういうの?」
「ぼちぼち上がりですよね。買ってきましょうか」
「たーちゃん。お任せでいい?」
「え。本当に行くんですか?」
「買ってこい、って言ったのは、お前じゃ」
大笑しながら美鈴と瞳はサブアリーナを出ていった。見送った孝子は、アリーナの隅のベンチに向かう。座って、まずやったのは、セミロングの編み込みに使っているバンダナを解くことだ。次いで、ベンチに置いていた持参のトートバッグを手に取った。ランドリーバッグを引き出し、首に巻いていたタオルともどもバンダナをしまうためだが、トートバッグの口を開いたところで、気付いた。かすかな振動音がする。マナーモードのスマートフォンだ。
画面を見て、孝子は小さくうめいていた。珍しい相手が電話をかけてきた。那古野女学院の松波治雄翁である。
「はい」
「やあ。夜分遅くにごめんね。那古野の松波です。神宮寺さん、ご無沙汰でした」
無沙汰はお互いさまだ。それよりも電話の理由だった。当然、何事か出来して、かけてきたはずだが、悪い知らせでなければ、と思う。
結論から言うと懸念は杞憂に終わった。松波は、長沢美馬を自身の後継者として那古野女学院へ勧誘する意向を持っていた。舞姫に入団する教え子たちのもたらした長沢退職、舞姫加入の報が、彼の関心を引いたのは処暑の候という。以来、関係各所との調整を重ね、万遺漏なきを期した上で引き抜きに乗り出したのが、二カ月を経た今日だったのだ。
とくれば、孝子への電話は、先方の関係者に仁義を通す過程で生起したものとわかる。長沢の恩師、各務智恵子、舞姫の長、中村憲彦らにも同様の断りを入れた、と松波は付け加えた。
「今のお話ですと、長沢先生には、まだお声掛けしてないのでしょうか?」
「うん。やっぱり、先にお三方の了解を得るべきだと思って」
「逆です。長沢先生のことなんです。何はなくとも長沢先生のご意向を確認していただかないと。他は後でもいいんです。もう。松波先生ともあろう方が」
「これは、恐れ入りました。じゃあ、ここからは、長沢さんとのお話に注力させてもらうね」
「そうしてください。あ。もし長沢先生が舞姫への義理とか気にされるようでしたら、私に教えてください。全力で追い出しますので」
女子バスケットボール界きっての名伯楽が、長沢の実力を認め、直々に出馬してきた意味は重い。舞姫のような零細チームにこだわるなど愚の骨頂といえた。後ろ髪はばっさり切り捨て、振り向かずにまい進すべきなのだ。孝子の熱弁を聞いて、松波は、哄笑、哄笑、であった。
松波との通話を終えたのと、美鈴と瞳がサブアリーナに戻ってきたのは、ほぼ同時だった。
「ミス姉。イエーイ」
孝子は立ち上がって、両腕を振り上げた。
「そんなにアイス食べたかったん? いじましいのう」
美鈴はアイスクリームの入った袋を突き出してくる。
「違うよ。松波先生にお電話いただいたの」
「じいちゃん、なんて?」
「長沢先生を、ナジョガクにくれ、って」
「わお。じいちゃん、考えたな」
美鈴が傍らの瞳を見た。
「多分、知らないと思うけど、舞姫に鶴ヶ丘の長沢さんが来る予定になっててな」
「へえ。あの方、先生は辞めちゃうんです?」
「鶴ヶ丘が長くて、異動不可避なんだって。しかし、じいちゃん、いいところに目を付けたな。スーちゃんに須之内、高遠、伊澤って、いくら元々の才能があっても、あそこまでしっかり育てられるのは、並大抵じゃないぞ」
三人は並んでベンチに座った。会話はアイスクリームを食べながらの継続となる。白、赤、緑の三色を見比べて、孝子が選んだのは緑のグリーンティーアイスだ。
「でも、大丈夫なんです?」
「何がよ」
「いきなり外の人がナジョガクに行って。目の上のたんこぶみたいなOGともめたりとか」
ちらりと瞳に見られて、美鈴は一笑に付す。
「ないない。今、ナジョガクOGの頂点って春菜だからね。その春菜にとって、長沢さんは姉弟子じゃん? あの子が立てる相手に盾突いたりした日には、死よ、死」
興味深い話を聞いた。つまり、春菜を取り込んでおけば、長沢の那古野暮らしは安泰が約束されるわけだ。海の見える丘に戻ったら、早速、打診してみるとしよう。そんなことを考えながら、孝子はアイスをつつくのだった。




