第三九三話 さかまく火群(二三)
決めた以上は脇目も振らないのが孝子だった。直ちに美鈴のレッスンを企画した。現在は大学の学期中で、日のあるうちは身動きが取れない。レッスンの実施は平日の夜と週末になろう。
場所は、瞳が推薦した重工体育館のサブアリーナで決定した。内覧の結果、防音性能も良好で申し分なし、と判断したのだ。
必要な機材は、剣崎の助力を仰ぐ。午後一〇時を回っていたが、お構いなしで電話する。ひところ孝子は音楽家の仕事場に入り浸っていた。有用そうな機材が並んでいた記憶があった。それらを借り受ける。
剣崎が推薦してきた機材は、大型モニターとハンディータイプのシンセサイザーだった。大画面で見るレッスン動画は踊りの上達に大きく寄与するはずだ。また、シンセサイザーはストラップを使って肩から掛けることができ、スピーカーも内蔵されているので、機動力のあるレッスンの助けになる、という。
素晴らしい、いつ用意できるのか、と問えば、最短で明日、と返ってきた。迅速で、誠に結構であった。機材の納入に合わせ、レッスンの開始は明日とする。大綱は定まった。
美鈴、瞳と別れた孝子は海の見える丘に戻った。あまりに遅い帰宅に、玄関まで麻弥以下三人が飛び出してきたものだ。連絡もせずに午後一一時間近は、確かに心配されても仕方なかった。
「遅かったな」
「話し込んじゃってね。ご飯は食べた?」
「まだだよ」
「そう。明日からは、もう少し早くなるけど、それでも一〇時ぐらいにはなると思うんで、先に食べちゃってね」
「え?」
「追って話すよ。まずは食べよう」
ダイニングテーブルに用意されていたのは鍋だった。ゆだり過ぎた野菜が、鍋の中でぐずぐずになっている。
「せっかくのお鍋の日なのに、間が悪かったね。ごめん、ごめん」
ほとんど食感のなくなってしまった長ネギに孝子はしかめっ面だ。
「いや。そろそろ、って思って早く入れ過ぎた。で、今日と明日以降は、何があって、何をするんだ?」
明らかにされた個人レッスンの開講について、最初に異を唱えたのは春菜である。
「お姉さん。どうして美鈴さんだけなんですか」
「どうして、って。ミス姉が頼んできたのは個人レッスンだもの」
「そこは、お前、みんなで一緒にやろう、って言えばいいだろ」
「そうですよ。私もお姉さんのレッスン、受けたいです」
麻弥と佳世が続いた。……はて。美鈴の依頼に満額回答をしただけの自分が、なぜ、責められているのだろう。すこぶる付きで気に入らなかった。
「そうだね」
三人の目がはっと見張られた。重低音で、孝子が気を悪くした、と気付いたのだ。
「次は、気を付けるよ」
孝子は、次は、と言った。よって、今回の変更は、なし、になる。
こうして、三人の干渉を払いのけた孝子は、翌日の夜からレッスンを開始した。初日は機材の搬入を行うため、意識的な急ぎ足で午後七時に重工体育館入りしたが、本来はもう少し遅くなる。基準とするのは平日だ。アルバイトを終えて舞浜大学を出発した孝子が、高鷲重工本社に到着するのは午後七時半あたりだろう。その後、なんやかやしているうち練習上がりの美鈴と瞳が合流し、レッスンの開始は午後八時過ぎになる計算であった。
「それは、それは」
笑っているのは剣崎だ。持ち込んできた機材を積み降ろしする間に、昨夜の一件を語ったところ、この反応をみせた。
「麻弥ちゃんには俺が言っておきましょう」
「何を、ですか」
「音楽に関して、神宮寺さんに意見するのはやめようね、って」
「それは、やめたほうがいいかも」
「え?」
「剣崎さんが私に味方した、ってむくれると思うな。うん。絶対に、やめたほうがいいです。あの子、かなりウエットですよ。私が口を滑らせなければいいだけなので」
「そうですか。麻弥ちゃんを、よくご存じの神宮寺さんの意見だ。素直に従っておきます。あ。支えてもらっていいですか」
「はい」
台車にはむき出しの大型モニターと同じくハンディータイプのシンセサイザーが載せられている。もう一つ、小さなケースがあるが、これは付属品の類いという。
二人がかりで台車を押して、体育館の中に入ると、例の、音、が聞こえてきた。皆々、今日も励んでいるらしかった。
「遅くまでやってるんですね」
「それどころか、一日中、やってますよ」
孝子は右手を指した。メインアリーナのある方角だ。
「あちらがメインアリーナで、こちらが――」
と今度は左手を指す。伸びた通路の先にレッスンで使うサブアリーナがある。
「ほう。これは立派だ。サブでこれなら、メインなんて、さぞ立派なんでしょうね」
立ち入ったサブアリーナの広さに、音楽家は驚きの声を上げた。
「単純なフロアの広さだけなら、倍ぐらい広いんじゃないですか」
サブアリーナはバスケットボールのコート二面分の広さで、メインアリーナは三面分だが、コート以外の余白を含めると、だいたい孝子の述べた比になる。
「さすがは大企業。でも、こちらでも十分過ぎます。よし。やっつけましょう。こっちは俺がやるので、神宮寺さんはシンセに触っておいてください。マニュアルはケースの中に」
そう言って剣崎は作業に入った。運搬に使った台車を移動式のモニター台に転用するのだ。普段は用具室にしまっておき、レッスンのときだけ引っ張り出す寸法である。
モニターが結束バンドできっちり台車に据えられ、簡易のレッスンシステムが完成したころ、孝子もシンセサイザーのいろはをかじり終えていた。あとは美鈴の合流を待つばかりだ。




