第三九二話 さかまく火群(二二)
美鈴が上がりになったのは、午後八時を少し回ったころだ。そこから、クールダウン、シャワー、と済ませた彼女が、孝子の待つ重工体育館一階のカフェラウンジに姿を見せたのは、さらに一時間弱を経た午後九時のことであった。
「やあ。たーちゃん。お待たせ」
さっぱりと汗を流して、艶々とした美鈴が、大声とともにカフェラウンジに入ってきた。
「大丈夫よ。須美もんが相手をしてくれてたし」
窓際の席に陣取った孝子の正面には、クールダウンを済ませた後、美鈴が戻るまで、ととどまっていた瞳の姿があった。
「お。武藤は部屋に戻ってないんか。ありがと。もういいぞ」
小さくうなずいた瞳だが、動く気配はない。
「内密な話です?」
「うんにゃ」
どっかと座った美鈴が応じた。
「じゃあ、このままいてもいいです? また、当分、会えないだろうし」
瞳の視線は孝子に向いている。黒須と遭遇の可能性がある重工体育館には、そうそう近づきはすまい、というのだ。
「まあ、ね。そうだ。どこか遊びに行くか」
「もう日本リーグが始まってるんですよ。私、土日は動けません。あ。私にはお構いなく。お話、どうぞ」
「うん。先に済まさせてもらうよ。たーちゃん。歌舞の、個人レッスンをやってほしいんだけど」
「動画、もらったでしょう」
動画、とは神奈川舞姫が舞台演出の一環として行う歌舞の、その動きを手ほどきしたレッスン用の映像を指す。歌舞に使う楽曲、『Shooting Star』を歌う、六人組男性アイドルグループ「Asterisk.」のリーダー、関隆一が手ずから用意してくれたものである。彼と、『Shooting Star』の作曲者にして、舞台演出を監督する剣崎との間に親交があった縁で実現したコラボレーションだ。
「そうなんだけど。関さんの動画って、踊りだけじゃん。歌も一緒にレッスンしたいんだよ」
「剣崎さんに頼んだら?」
「たーちゃん、ボイスティーチャーだろ。教えろよ」
「なんだ、その態度は。教えていただけませんでしょうか、孝子さま、だろ?」
「泣かす」
組み合いを始めた二人を、瞳はあぜんと見ている。
「ああ。須美もんは、なんのことだかだね。舞姫で、パフォーマンスをやるんだよ。試合に勝ったとき、歌って踊るの。その練習の話」
世の耳目を引くためだ、と補足を受けて瞳は複雑な表情を浮かべた。
「やっぱり、厳しいんです?」
「何が」
「チームの経営。そんな歌舞とか、やらないといけないぐらい」
「楽にはならないだろうね。アストロノーツさんと違って、舞姫の母体は頼りにならないし。だから、自分たちでも、相当、やってもらわないと。それで、歌舞」
「はあ。大変ですね」
「そう。大変だよ。でも、成功したら、二強なんて目じゃなくなるぜ。日本で一番、有名な女子バスケのチームに舞姫がなるのさ。というわけで、たーちゃん。教えろ」
「だったら、孝子さま、って言えよ」
またぞろ取組だ。
「ああ。もう。暴れないで」
孝子が担ぎ上げられたところで瞳の仲裁が入った。
「孝子さま、って言うまで、絶対に教えない」
「生意気なやつだな。いいぞ。言っちゃる。孝子さま、教えて」
「仕方ないな」
孝子が席に戻ったのを機に、美鈴と瞳も腰を下ろす。
「場所を、どうするかな。大きな音が出るし。それなりの場所じゃないと。最終的にはlaunch padを使えばいいけど、そこまでのつなぎを」
「ここを、使ったら、どうです?」
思いがけないことを瞳が言い出した。
「ここ?」
「サブアリーナがあるんですよ。昔、男子部がいたころは女子部が使ってて、今は、誰も。普段、締め切っているんで、中で何をやってもばれないと思います」
「いいの?」
「いいんじゃないですか? 市井さんには施設の使用を許可してるんですし。秘密特訓とかいって、鍵をかけちゃってもいいでしょうし」
「須美もんも、なかなかの悪よのう」
「手伝いますよ。そうすれば春谷もんと会えるでしょ。レッスンの終わりにでも、こんなふうに話しませんか」
県人に、ここまで言われては、乗らざるを得ない。当地でのレッスンを実施するとしよう。種々の準備が必要だろう。何から手を付けようか。手ぐすねを引く孝子であった。




