第三九一話 さかまく火群(二一)
いつ以来か、と懐かしむ気持ちは、一瞬で消えていた。孝子は失笑した。高鷲重工本社の敷地内にある体育館には、ユニバースの女子バスケットボール競技決勝を観戦するため、訪れていたではないか。まだ二カ月ほどしかたっていない。
差し入れの大袋を両手に提げて、体育館の北側エントランスをくぐると、音が聞こえてきた。アストロノーツの選手たちの掛け声、シューズがフロアをこする音、いずれも複数。ここに、ボールをつく音が、時々、交ざる。午後七時は、夕食後の自主練習のころ合いだが、よろしくやっているようだ。
孝子はメインアリーナをのぞいた。試合形式の練習中らしい。中に一人、素人目でもわかる動きの鋭い選手がいた。市井美鈴、その人だ。ユニバースの得点王に加えて、LBAでも二年連続となる得点王に輝いた実力は、だてではないとみえる。今や世界屈指の点取り屋となった彼女には、アストロノーツのエース、武藤瞳ですら対応できていない。
「須美もん、何、ぼこぼこにされてるんだ。真面目にやれ」
罵声に対して、歓声が返ってきた。この場所で『中村塾』が開かれていたころ、豪快な量の差し入れを携えて、頻繁に顔を見せていた孝子を、皆、覚えているのだ。
「お。たーちゃん、来たか!」
「来たよ。ミス姉、重い。取りに来て」
駆け寄ってきた美鈴に大袋を任せ、孝子はアストロノーツの選手、スタッフたちの元に向かった。
「お久しぶりです。差し入れを持ってきたので、後で召し上がってくださいな」
早速、アストロノーツの選手たちが大袋に群がる。後で、と言ったが、そのまま練習は止まって、おやつ休憩が始まった。孝子もお持たせを勧められたが断った。大学から直接、重工体育館にやってきて、まだ夕食前なのだ。このタイミングで、スティックケーキなどという重量級は食べるべきではない。
「春谷もん、本当に久しぶりじゃないですか」
スティックケーキを片手に、笑顔の武藤瞳が近づいてきた。釣られて孝子も笑顔になる。孝子と瞳は出生地が隣町同士ということもあって、実に砕けた間柄だ。お互いの出生地である孝子の福岡県春谷市春谷町と瞳の福岡県春谷市須美町にちなんで、前者は後者を、須美もん、後者は前者を、春谷もん、と呼ぶほどであった。
「今日は、絶対に来ない、ってわかってたんで、ミス姉を練習に参加させてもらってるお礼を言上しに、ね」
周囲で、どっと笑いが起こった。
「誰を指しているのかは、わかるんですけど。そうなんです?」
「うむ。今日は桜田OBで大宴会だって。木村さんも、中村さんも、来てないでしょ」
中村発の情報を孝子に流し、あいさつに赴くならば今日が好機、と献策してきたのはカラーズの誇る寝業師の尋道だ。
「ああ。それで、今日は二人とも」
「そうそう。あ。木村さまに礼状をしたためてきたんだ。須美もん、託していい?」
「お預かりします。……木村部長がいないのをわかってて、周到ですね」
「まあ、ね。ところで、須美もん。さっき、ミス姉に華麗にかわされてたね」
「いや。あの人、本気で、やばいですって。すご過ぎる」
「もっと褒めてもいいぞ」
スティックケーキをもりもり頬張りながら、美鈴が会話に交ざってきた。
「本当に、来てくれてよかった。私を含めて、日本にいる人たちとは次元が違います。静も来てくれたら、もっとよかったんだけど」
瞳の言うとおり、もしも、静が参加していれば、美鈴に伍する動きを披露していたであろう。ユニバースによる中断期間のあったがために、例年と比べて前後に二週間ほどずれたLBAの全日程を、レザネフォル・エンジェルスは無敗で終えた。その主戦選手として活躍した静の評価は、今や「世界最高のポイントガード」にまで暴騰している。二年連続のアシスト王とスティール王に加え、LBA最高の五人を意味するオールLBAチームの一員に選出されたのだ。オールLBAチームすなわち世界最高の五人となる。ちなみに、他の最高の四人は、市井美鈴、アーティ・ミューア、イライザ・ジョンソン、シェリル・クラウス、といった顔ぶれである。
「なあ! そりゃ、春菜とやりたい、っていうのもわかるけど。プロなんだし、フィジトレは、絶対にこっちでやるべきなのに。絶対に行かねえ、って」
断固とした態度で重工体育館での練習を拒否した静は、大師匠に当たる舞浜大学女子バスケットボール部監督、各務智恵子の元に向かっていた。
「ごめんね、ミス姉。大きな声じゃ言えないけど、あの子、例の人のこと、私に言い寄るいやらしい中年だと思ってて、ものすごく嫌ってるの。ここに来ると、会う可能性があるでしょ。それで」
顔を見合わせた美鈴と瞳から、異口同音に、ああ、と漏れた。
「私も大きな声じゃ言えませんけど、わかります」
「うん。あの子、ゴールドメダルの祝賀パーティーでも、話し掛けられないように、逃げ回ってたらしい」
「そういえば、スーちゃん、すごいそわそわしてた」
「そんなわけなんで、酌んであげてくださいな」
「酌まざるを得ないな。時に、たーちゃんや。すぐに帰るんか?」
「久しぶりだし、もう少し見学する」
最近の海の見える丘の家事は、卒業に必要な単位の取得を完了して、時間に余裕のある麻弥が一手に担っている。連絡さえ入れれば、適宜、対応してくれるだろう。急いで帰宅する必要はないのだ。
「じゃあ、練習が上がるまで、待ってて。話がある」
「わかりました」
うなずき、孝子はコート脇のベンチに腰を下ろした。そして、ぼちぼちと選手たちがコートに戻り、メインアリーナに、再び、音たちが満ち満ちていくさまを、じっと眺めるのだった。




