第三八話 五月晴(三)
翌日も午後五時前に、孝子は北ショップへと顔を出した。しゃちほこ張ってショップ長の風谷涼子が迎える。昨日の今日で、合わせる顔が、といったところか。その方面には極めて淡泊な孝子である。まして相手は知己となって日の浅い上司である。つつくつもりは、毛頭なかった。それに、だ。職場が学内にあり、勤務時間も短い。こんな好条件を逃すのは惜しい。そんな現実的な事情もある。丁重に無視する所存だった。
「あ。店員証ができました。これ」
涼子が孝子の名前の書かれたカードとネックストラップとを手渡してきた。昨日は、全ての作業を涼子の店員証で代用していたのだが、今日からは孝子も自らの店員証で独り立ちか。これで気まずい相手と、いちいち向かい合わずに済んで、救われただろう、と孝子はそんなことを思っている。
ほとんど、来客も、また、二人の会話もないまま、午後六時を回った。店内に入ってきたスーツの男性は、斯波遼太郎だった。
「や。お疲れさま」
「いらっしゃいませ」
「北ショップは、確か、二人で回してるんだよね。この二人なら、閉店前に来てもいいか、と思って」
「……どうだか」
涼子の乾いた声だ。
「どうしたの?」
「今日、ほとんど口を利いてもらえてないんです」
「おや」
「いえ。すごく硬い顔をしていらっしゃったので遠慮していました」
「……なんだ。軽蔑されたのかと思った」
そう言って、涼子は大きく気を吐いた。安堵の表情、と孝子は見た。……もう少しだけ場の空気を和ませてもいいだろうか。
「軽蔑なんて、まさか。あんなかわいらしい言い訳をする方を」
「……あ。そうだ。私が行ってから、悪口を言ったってね。何が、子供みたいな、よ」
「悪口じゃないです。素直な感想です。ご自分でも、そうお思いになりませんか」
「……すごいいい子が来た、って思ったのに。もしかして、とんでもない子を、私、引いたの?」
「涼ちゃんさんも、意外に人を見る目がないですね」
応酬を眺めていた斯波が笑いだした。
「いい組み合わせだ。孝ちゃん、いいな。好きだな」
なれなれしい、と思ったが、せっかくの雪解けだ。こらえ、自分もなれなれしくすることで相殺にしよう。
「いいんですか。斯波さん。いとしの涼ちゃんさんの前で他の女を褒めて」
「多分、大丈夫。孝ちゃんは、一年生?」
「はい」
「それは何より」
「……どういう意味でしょう?」
「ティーンエージャーは守備範囲外なんだ」
孝子は慌てて口元を押さえた。危うく大笑するところであった。
「面白い方ですね。私も斯波さんが好きです」
「ありがとう」
「ちなみに、一年生ではありますけど、浪人してます。ただ、早生まれなので、まだティーンエージャーです。よかったですね、涼ちゃんさん」
「何が……?」
「目移りされなくて。でも、昨日は夜で、斯波さんのこと、よくわからなかったんですけど、ハンサムじゃないですか」
孝子の評どおり、痩せ形の斯波は、スーツの着こなしも悪くなく、なかなかの好男子といえた。
「大学の職員なんて、お堅い職に就いてらして、かつ、このルックスなんて。金のわらじで尋ねても、そうは見つからないですよ。さあ」
「何が、さあ、よ。そんなに褒めるなら、あげます」
「結構です。おじさんは守備範囲外です」
「言われた。涼ちゃん。多分、孝ちゃんは、今のが言いたかったんだよ」
「口は、災いのもと、ね。さあ。閉店処理に入りましょう」
何か手伝おうか、との斯波の言に、涼子は首を横に振った。
「いくら斯波さんでも、お店のものに触っていただくわけには」
「でしたら、外の看板を運んでもらうのは、どうでしょう」
ころが付いているものの、立て付けが悪く、従って動きも悪い立て看板の存在を、孝子は喚起した。あさっての方向に行って、ショップのガラス窓にでも当たらぬか、と運搬に気を使う代物である。
「ああ。あれ、ね」
まんざらでもない顔の涼子を横目に、孝子は斯波の隣に立った。
「斯波さん。チャンスです」
「詳しく、聞こうか」
乗りよく、斯波は顔を寄せてくる。
「表の看板を運ぶのを手伝う、って名目で、毎日、ここに顔を出せますよ」
「小娘」
「友よ。大学生活で何か困ったときは、すぐに僕を頼るんだよ」
「その折には、よろしくお願いします」
笑顔交じりの襲撃が起きた。避けて、孝子は店内の掃除に取り掛かり、斯波は店舗の外に走り去っていく。なんともおかしみのある人たちだった。給与の他に、もう一つ、孝子のアルバイトに楽しみが増えた瞬間であった。




