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未知標  作者: 一族
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第三八七話 さかまく火群(一七)

「そういえば、孝ちゃん。アートが歌を出したんだね」

 発言の主は、孝子のアルバイト先である舞浜大学千鶴キャンパス学生協同組合北ショップのショップ長、風谷涼子だ。名は体を表す、を地でいく涼やかな美女である。

「涼ちゃん。もう半月以上も前の話だよ」

 斯波遼太郎が床をモップで拭いていた手を止めた。舞浜大学職員の彼は、自分の終業後に、毎日、北ショップにやってきて、店じまいの手伝いをする。意中の人の涼子を訪ねるついでに、だ。

「私、音楽に興味なくて」

 業務日誌から顔を上げて涼子は答えた。斯波の指摘どおり、アーティが歌う『FLOAT』の配信が開始されたのは先月の下旬だ。半月以上が過ぎている。

「ものすごいヒットしてるんだってね。再生回数がどうとか、一日の売り上げの記録がどうとか。そういうニュースで、初めて知ったの」

「ニュースも、古いな」

「お詳しいのね。あまり音楽とか詳しいイメージはないけど」

「剣崎さんがプロデューサーだもの。僕、あの人の作品には、全部、手を出すようにしてるの」

「あ。そうなのね。知った人が二人も関わってるのか。ただ聴くだけじゃなくて、買ったほうがいいのかな」

「三人、三人」

 不意打ちに、思わず孝子はのけ反っていた。三人とは、アーティ、剣崎、そして、孝子か……? アーティに『FLOAT』を提供したのは岡宮鏡子こと孝子なのだ。

 斯波は岡宮を知っていたのか。漏らしたとすれば剣崎だが、あの音楽家は、これまでも鉄壁の信義で岡宮の存在を隠蔽してきた。いくら親友が相手でも粗相はするまい。他に斯波とつながりがあって、岡宮の正体を知る者といえば、喫茶「まひかぜ」の岩城だが、彼こそ、絶対に余計なまねはしないだろう。では、剣崎が楽曲を担当した映画、『昨日達』を観賞していて気付いたか。『昨日達』の主題歌を歌ったのは岡宮だ。どうも、これのような気がする。特徴的な低音を聞いたときに、ふと孝子の存在が脳裏に浮かんだとしても、おかしくはない。

「アートのマネージャーはエディさんだよ」

 再度、孝子はのけ反った。早合点だった。二人はエディを知っているし、確かに、エディも関係者の一人だ。彼の存在を失念していた。

「知った人が三人に増えたら、もう買うしかないのか。……そんな、しみったれが、みたいな顔しないでよ」

 涼子に気付かれた。しかも、勘違いされた。孝子は迷った。涼子の誤解は解かねばならなかった。このままでは、うかつに内心を表に出す、つまらぬやつではないか。といって、岡宮の名前を、わざわざ出すのは避けたかった。何か、うまい言い訳があればよいのだが。

「買いますよ。買えばいいんでしょう」

 へらへら笑う涼子は、机の引き出しに手を突っ込み、取り出したスマートフォンを掲げた。

「一曲、一〇〇円ぐらいかな」

「そんな安くないよ」

「どれ」

 スマートフォンを操作していた涼子が、うへへへへ、と不気味な笑い声だ。

「歌とビデオで一〇〇〇円近くいくじゃない。高いよ」

「たった一〇〇〇円で。孝ちゃんの思し召しのとおりじゃないの」

 いけない。孝子が涼子に対して、しみったれ、と意思表示したことが、斯波にも事実として受け取られている。依然として言い訳は思い付かない。進退は極まったといえた。

「涼子さん。違うんです」

「え?」

「しみったれ、なんて思ってないです。早合点しちゃって」

「早合点?」

 今まで隠していた負い目はあるものの、この二人ならばとがめ立てはするまい。孝子は意を決した。

「斯波さんが、三人、って言ったのを、私だと思って」

 二人は間延びした顔をしている。孝子が何を言わんとしているのか、判然としていないのだ。

「涼子さん。ちょっと、いいですか?」

 涼子のスマートフォンを受け取った孝子は、表示されていた購入確認画面から楽曲のクレジットを表示させた。

「この、作曲者のKyoko Okamiyaっていうのが、私なんです」

「へえ。そんな特技があったんだ。じゃあ、去年、アートが日本に来たのって、レコーディングのためだったの?」

「はい。黙っていてすみません」

「黙ってたの? 守秘義務か、何か?」

「いえ。私が岡宮の活動に乗り気でないので、できるだけ表沙汰にならないよう、剣崎さんにお願いしてあるんです」

「だったら、仕方ないじゃない。よし。孝ちゃんが関わってるんだし。買うよ」

 どうにもあっさりとしている。音楽に興味がない、という彼女故なのだろう。大変にありがたい反応ではあるのだが……。いささか拍子抜けした孝子は斯波を見た。

「斯波さん。すみませんでした」

「こういうので目立ちたがる子じゃないのはわかってるんで、それはいいんだけど。なら、剣崎さんとも、ずっとつるんでたんだ?」

「はい。おととしの冬に『昨日達』って映画があったのは、ご存じですか?」

 内容までは、と言いながら斯波はうなずいた。

「あの映画の主題歌を歌って以来の腐れ縁です」

「ちょっと待った」

 涼子の声だ。

「孝ちゃんの歌もあるんだ。なんてタイトル?」

「『逆上がりのできた日』です」

 ややあって、

「買った」

 と右腕を高く突き上げた涼子は、そのままスマートフォンをしまい込んだ。

「涼ちゃん。聴かないの?」

「乗り気じゃない、って言ってたし。売り上げには貢献したんだし」

 要するに、孝子が関わっているからこそ購入しただけだ、決して、聴きたかったわけではないので、というのである。

「こらこら」

 斯波は苦笑しているが、とんでもなかった。そんな程度の姿勢が、むしろ、ありがたい。誰かのため、何かのためにやっているのではない、個人的な趣味に過ぎぬ孝子の音楽を気にする人が、周りに多過ぎる。例えば、あさっての早朝に帰国する静も、ライブ、ライブ、と小うるさい。義妹が涼子のようだったら、どんなにいいことか、などとは孝子の音楽を好いてくれる相手に対して、あまり抱いてはいけない類いの感慨には違いなかった。

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