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未知標  作者: 一族
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第三八六話 さかまく火群(一六)

 一週間がたった。約束の日曜日だ。孝子と春菜が、舞浜市中区の新舞浜THI総合運動公園内にある舞浜F.C.グラウンドを訪れたのは、午後二時である。関係者用の駐車場の入り口には、制服姿の守衛に並んで伊央の姿があった。気付いて、手を振ってくる。乗り入れると、なんと伊央は車のすぐ前を走って案内するではないか。

「危ないなあ。指さしてくれればわかるのに。おはる、後で怒っておいて」

「わかりました。――伊央さん、邪魔でしたよ」

 降り立つなりの叱声に、伊央は目を丸くしている。

「え?」

「車の前を走って、危ないでしょう。万が一、お姉さんがひいたらどうするつもりですか。お姉さんに迷惑を掛けたら許しませんよ」

「俺の心配じゃなくて、神宮寺さんの心配っていうのが、北崎さん過ぎてたまらない」

「くだらないことを言ってないで。今日は、容赦なく絞ってあげますよ。ロッカールームを使わせていただけますか」

「よし。こっち」

 伊央に先導されて、二人はクラブハウスに入った。

「伊央さん。運動するのはおはるだけなので」

「君も走ったほうがいい。今度こそ、げろはくぞ」

「吐かなかったからいいの」

「じゃあ、ロビーで待ってて。俺は北崎さんを案内してくるよ」

 二人を見送った孝子は、ロビーの窓際に寄った。グラウンドが見渡せる。グラウンドは無人だった。さもあろう。オフの、まだ早い時間帯だ。

 しばらくすると、春菜と伊央がロビーに戻ってきた。そろいのジャージーを着けている。舞浜F.C.のチームカラーのウルトラマリンだ。

「お姉さんの分もありますよ。伊央さん、二人分、用意してくれていたそうで」

「ありがとうございます」

「ロッカールームに置いてあるので、後でお渡しします。では、始めますよ」

 グラウンドに出ると、早速、二人は動きだした。孝子も動きだす。二人のトレーニングに興味はないので、散歩だ。広大な芝生の上を歩くのは気持ちのいいものだった。足元のふわふわとした感触がたまらない。端まで行ったところで腰を下ろし、脚を放り出した。いつもどおりのデニムパンツで、汚れを気にする必要はなかった。かなたでは春菜と伊央が、短い距離を行ったり来たりしている。サッカーのウオーミングアップか。

 行儀の悪いことだが、ごろりと寝転んだ。一〇月も半ばだ。空が澄んでいる。ぼんやりしているうちに、ふと赤柴のロンドを思い出していた。ほぼ飼い主の那美いわく、散歩を嫌い、連れ出してもすぐに帰りたがるらしい。犬のくせに出無精とは、ふざけたやつだった。こういう場で、駆けずり回らせてやろうか。

 ぼんやりは、いつかうつらうつらとなっていた。

「――お姉さん」

 目を開けると、春菜がのぞき込んでいる。

「……もう終わり?」

「もう、というには、割と時間たってますよ」

 聞けば、一時間近くが過ぎていた。

「うっかり寝ちゃったか。あと、どれくらい続けるの?」

「もう終わりです。長くやっても、意味はありませんので。大事なのは積み重ねですよ」

「そう。伊央さん、手応えはどうでした?」

「全然。そもそも、北崎さん、天才過ぎるだろ」

「おはる。何をやったの?」

 春菜が伊央につけた稽古とやらは、孝子の理解を超えていた。一つの実例が示された。

 春菜の足元にはサッカーボールがあった。孝子が寝転んでいた場所まで蹴ってきたのだろう。伊央に高く放らせたそれを、春菜は頭頂部で受けて、ぴたりと静止させてみせた。

「運動能力を極めれば、こういうこともできるようになります。伊央さんが、この領域に至れば、止められる人は、ちょっといませんよ」

 話している間も、ボールは微動だにしない。

「伊央さんは、できなかったの?」

「できなかった。で、もう一回、って言ったら、初回でできないと意味がない、って罰点を食らったよ」

 孝子は春菜を見た。何を言っているのか、よくわからない。

「練習してできるようになっても、駄目なんです。これ自体は、頭の上にボールを乗せられる、というだけの、なんの役にも立たない技術なので。目的ではないんです。自在に体を動かせる結果として、こういうことを無造作にできるようになる。これが、私のつける稽古の到達点です」

「……練習しないんだったら、どうやって体を動かせるようにするの?」

「日々の精進しかありません。例えば、ご飯のときに、お箸で米粒を縦につかめるか、どうか、なんてやってみたり」

「それも、初回でできないと意味がないの?」

「そのとおりです。どれだけぼけた人でも、何十回、何百回と同じ動きを繰り返していれば、いつかは形になりますよ。それでは駄目なんです。そういう話ではないんです。一回で成功しないと。そのためには、日常の一挙手一投足に、運動能力を研ぎ澄ますための動きを取り入れていく必要がありますね」

「おはるがバスケをうまいのも、毎日の積み重ねだったんだね」

「いいえ。私は違います」

 やはり、何を言っているのか、よくわからない。

「やらなくても、できるんです。私は運動能力の天才ですので。伊央さんも、運動能力を高める練習なら、今までに飽きるほどしてこられたと思うんですよ。それでいて、改善が見られないのなら、その練習は合ってなかったんです。大丈夫です。天才を知るのは天才だけです。うまくいきます。運動能力の天才が、身体能力の天才を、見事に開花させてあげますよ」

 深慮は、やめた。実践するのは伊央である。無関係の凡俗が、蒙昧をあぐねる必要はなかった。ただ伊央の遼遠たる前途に幸いあれ、と祈っておくだけにしておこう。

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